17日(金)は、東京・四谷で「第22回 将棋ペンクラブ大賞贈呈式」が開かれる。会場はJR四ツ谷駅の上智大学側を出てスグの「スクワール麹町」。午後6時半開場、7時開演である。会費は男性8,000円、女性6,000円。
贈呈式の内容は盛りだくさんだが、閉会が8時半とやや早い(注:実際は9時閉会予定とのこと)。二次会に重きを置いているのかもしれないが、ちょっと割高の感はある。まあ将棋ペンクラブもおカネがないし、やむを得ないのだろう。私も参加する。
なお参加については、会員でなくても可能である。もちろんプロ棋士の参加も大歓迎だが、会費もほかの参加者と同様、取る。なぜなら将棋ペンクラブは「文章と将棋を愛する者」の集まりであって、将棋の棋力は関係ないからだ。
「私はプロなんだから、会費は払わなくてもいいだろう」
などという無理攻めは、ここでは通用しない。
ところで昨年も書いたが、四ツ谷は私がサラリーマン(再就職時)だったころの最寄り駅で、この近辺にはいい思い出がまったくない。
というのは、この会社は社員数人の弱小広告代理店だったが、社長が年中仏頂面で仕事をしていて、みんなも黙々と仕事をするのみだった。社内に無駄話や笑いというものが一切なく、面白くもなんともない会社だったからだ。社内に流れるFM放送が、かえって静寂を際立たせた。
定時は午後6時だったか6時半だったか忘れたが、社長がつねに最後まで残って仕事をしているので社員は帰りづらく、私もどうでもいい仕事を見つけては、時間つぶしのようなことをやっていた。小腹がすいても近所にはコンビニすらなく、空腹は我慢するしかなかった。帰宅はいつも、9時とか10時だった。一度7時だか7時半ごろだかに退社したことがあったが、社長から「オッ」と言われた。もう帰るのか? という反応である。この時間まで会社にいれば十分だバカヤロ。
それなのにこの会社、給料は基本給だけで、営業手当や残業手当の類は一切出なかった。これ、いまなら裁判沙汰であろう。土曜や日曜の休日に、東京ビックサイトなどへ設営作業の手伝いに出向いても、おカネは1円も出なかった。自発的に手伝っている形だから、もちろん代休はない。
月曜日に出社しても、社長の「ご苦労さん」の一言もない。お中元やお歳暮を贈る習慣もなかったので、お得意様への贈り物は全部自腹だった。これではおカネがたまるわけがない。
そんな会社で唯一の救いといえば「夏季休暇」で、7月20日から9月10日までの5日間を、任意に取ることができた。この期間なら、休みを連続5日間とるもよし、週に1日ずつ5回取るのもよしと、自由だった。ここで私は毎年9月上旬に休みをまとめて取り、沖縄を旅行することにした。
9月になれば事前予約割引で飛行機代は安いし、暦は秋でもじゅうぶん沖縄の暑さを堪能できると思ったからだ。実際沖縄は楽しかった。それから夏の沖縄旅行が私の定番となった。ちなみにこの慣習は現在も続いており、沖縄にハマるキッカケを作ってくれた会社に、その点だけは感謝している。
それでもこんな有様だから、社員の入退社も激しかった。いつぞやの年は3ヶ月連続で社員が辞めたこともあった。中には神経をおかしくして辞めた者もいた。
ある年ジャニーズ系のイケメン社員が入社したが、こんな雰囲気だから、彼は私しかすがる人がいなかった。ある日、会社の帰りに珍しく喫茶店でおしゃべりをする機会があり、このときは社長の悪口を言い、大いに笑った。彼は「また…お願いします(誘ってください)」と言った。しかし私はこのときすでに人の心をなくしていたので、その後彼を誘うことはしなかった。その結果、彼は数ヶ月後、ノイローゼになって退職した。
私のどうでもいいサラリーマン生活の中で、唯一悔やまれるのが、彼への思いやりだった。早晩彼は辞める運命にあったろうが、先輩としてもっともっと彼にしてやれることがあったはずだ。それを私はしなかった。
それから何年か経ち、立ち食いそば屋「ゆで太郎」ができて、営業の帰りや残業時にもりそばを食べにいくのが唯一の楽しみになった。
ところでこの会社は、社長が前に勤務していた代理店から独立したものである。ある年、その代理店から3人ほど入社し、2人が役付きになった。うちひとりは社長より年上である。きっと前の代理店でリストラされたのだろうが、かつては自分の後輩だった男を、よく社長と呼べるものだと、私は心の中で冷笑したものだった。
そのほかに困ったこともあった。私以外はほとんどがヘビースモーカーで、室内はつねに煙がモコモコしていた。精神的苦痛に加え、肉体的苦痛が日常的に襲ってくる。こんな会社にいたら副流煙で肺をヤラれる、と私はマジでおののいた。
そんなある年、オヤジから相談を受けた。得意先から、オタクの長男はゆくゆくはどうするの? 跡は継がないの? 後継者がいないと仕事をあげないよ? というようなことを言われたというのだ。
オヤジは自営業者で、キツイ、キタナイ、キケンの3Kを地で行く仕事だった。職人だから定期昇給もない。オヤジも最初は私に好きな道を選ばせたかったようだが、得意先の意向には逆らえず、私に相談したというわけだ。
広告代理店の仕事は面白くなかったが、外出できる自由はあった。しかしオヤジの仕事に就くと、まず外には出られない。工場で、それこそ黙々と仕事をするだけだ。女性と知り合う機会は100%なくなり、私の婚期は遠のく。いや、結婚は諦めるしかない。それでも私は自営業を取った。オヤジを助けるという意味ではなく、いまの仕事にケリをつけかったからだ。
広告代理店の最終日は、とてもせいせした気分だった。苦痛だったこの仕事から、やっと解放されるのだ(3年前の5月、LPSA女流棋士が、女流棋士総会会場から出ていくときも、こんな感慨だったのではあるまいか)。最後のエレベーターに乗る時、そこにいた全社員が私を見送ってくれた。つねに私をイビッテいた上司(例の転職者だ)がまだ帰社していないのも、ありがたかった。
有給休暇はひどく少ないうえに、取れる雰囲気ではなかったので、退職時は15日ぶんの休暇が余った。言うまでもないが給料には替わらず、最後までおカネがたまらない会社だった。
自営業の肩書きになってからの私は、地味な仕事をひたすらこなした。基本的には周りに誰もいないところで、黙々と作業する。ラジオもかけなかったから、聞こえるのは自分が発する作業の音だけだ。しかしこんなものは、代理店のそれに比べたら、大したストレスではなかった。
仕事も午後6時にキッカリ終わった。給料は半分近くに減ったが、私は友人がおらず、支出がほとんどなかったので、貯金は毎月微増していった。
それから数年が経ち、女流棋界にLPSAができ、私はひょんなことから、金曜サロンに通うことになった。もし広告代理店務めを続けていたら、そういう展開にはなっていないはずで、これも運命といえようか。
しかし金曜サロンに通いだして、困ったことがあった。私はそこまでの数年間、女性とほとんど話さなかったので、女性に対しての免疫がなくなっていたのだ。
したがって女流棋士を前にして、私が今もまともに話ができないのは、その後遺症があるからなのである。
というわけで、私は代理店退社後も、JR中央線で四ツ谷駅を通るのさえイヤだった。
現在はその思いもだいぶ薄れてきて、四ツ谷アレルギーもなくなった。折しもJR四ツ谷駅は今年6月から、都内初の女性駅長が就任し、話題になった。
読売新聞東京版9月10日夕刊にも再び記事が出ているが、その女性駅長は白山弘子(しらやま・ひろこ)さん。平日はほぼ毎朝改札に立ち、乗客にあいさつをするという。17日の夕方にその駅長さんに会えるとは思わないが、いまから楽しみである。
贈呈式の内容は盛りだくさんだが、閉会が8時半とやや早い(注:実際は9時閉会予定とのこと)。二次会に重きを置いているのかもしれないが、ちょっと割高の感はある。まあ将棋ペンクラブもおカネがないし、やむを得ないのだろう。私も参加する。
なお参加については、会員でなくても可能である。もちろんプロ棋士の参加も大歓迎だが、会費もほかの参加者と同様、取る。なぜなら将棋ペンクラブは「文章と将棋を愛する者」の集まりであって、将棋の棋力は関係ないからだ。
「私はプロなんだから、会費は払わなくてもいいだろう」
などという無理攻めは、ここでは通用しない。
ところで昨年も書いたが、四ツ谷は私がサラリーマン(再就職時)だったころの最寄り駅で、この近辺にはいい思い出がまったくない。
というのは、この会社は社員数人の弱小広告代理店だったが、社長が年中仏頂面で仕事をしていて、みんなも黙々と仕事をするのみだった。社内に無駄話や笑いというものが一切なく、面白くもなんともない会社だったからだ。社内に流れるFM放送が、かえって静寂を際立たせた。
定時は午後6時だったか6時半だったか忘れたが、社長がつねに最後まで残って仕事をしているので社員は帰りづらく、私もどうでもいい仕事を見つけては、時間つぶしのようなことをやっていた。小腹がすいても近所にはコンビニすらなく、空腹は我慢するしかなかった。帰宅はいつも、9時とか10時だった。一度7時だか7時半ごろだかに退社したことがあったが、社長から「オッ」と言われた。もう帰るのか? という反応である。この時間まで会社にいれば十分だバカヤロ。
それなのにこの会社、給料は基本給だけで、営業手当や残業手当の類は一切出なかった。これ、いまなら裁判沙汰であろう。土曜や日曜の休日に、東京ビックサイトなどへ設営作業の手伝いに出向いても、おカネは1円も出なかった。自発的に手伝っている形だから、もちろん代休はない。
月曜日に出社しても、社長の「ご苦労さん」の一言もない。お中元やお歳暮を贈る習慣もなかったので、お得意様への贈り物は全部自腹だった。これではおカネがたまるわけがない。
そんな会社で唯一の救いといえば「夏季休暇」で、7月20日から9月10日までの5日間を、任意に取ることができた。この期間なら、休みを連続5日間とるもよし、週に1日ずつ5回取るのもよしと、自由だった。ここで私は毎年9月上旬に休みをまとめて取り、沖縄を旅行することにした。
9月になれば事前予約割引で飛行機代は安いし、暦は秋でもじゅうぶん沖縄の暑さを堪能できると思ったからだ。実際沖縄は楽しかった。それから夏の沖縄旅行が私の定番となった。ちなみにこの慣習は現在も続いており、沖縄にハマるキッカケを作ってくれた会社に、その点だけは感謝している。
それでもこんな有様だから、社員の入退社も激しかった。いつぞやの年は3ヶ月連続で社員が辞めたこともあった。中には神経をおかしくして辞めた者もいた。
ある年ジャニーズ系のイケメン社員が入社したが、こんな雰囲気だから、彼は私しかすがる人がいなかった。ある日、会社の帰りに珍しく喫茶店でおしゃべりをする機会があり、このときは社長の悪口を言い、大いに笑った。彼は「また…お願いします(誘ってください)」と言った。しかし私はこのときすでに人の心をなくしていたので、その後彼を誘うことはしなかった。その結果、彼は数ヶ月後、ノイローゼになって退職した。
私のどうでもいいサラリーマン生活の中で、唯一悔やまれるのが、彼への思いやりだった。早晩彼は辞める運命にあったろうが、先輩としてもっともっと彼にしてやれることがあったはずだ。それを私はしなかった。
それから何年か経ち、立ち食いそば屋「ゆで太郎」ができて、営業の帰りや残業時にもりそばを食べにいくのが唯一の楽しみになった。
ところでこの会社は、社長が前に勤務していた代理店から独立したものである。ある年、その代理店から3人ほど入社し、2人が役付きになった。うちひとりは社長より年上である。きっと前の代理店でリストラされたのだろうが、かつては自分の後輩だった男を、よく社長と呼べるものだと、私は心の中で冷笑したものだった。
そのほかに困ったこともあった。私以外はほとんどがヘビースモーカーで、室内はつねに煙がモコモコしていた。精神的苦痛に加え、肉体的苦痛が日常的に襲ってくる。こんな会社にいたら副流煙で肺をヤラれる、と私はマジでおののいた。
そんなある年、オヤジから相談を受けた。得意先から、オタクの長男はゆくゆくはどうするの? 跡は継がないの? 後継者がいないと仕事をあげないよ? というようなことを言われたというのだ。
オヤジは自営業者で、キツイ、キタナイ、キケンの3Kを地で行く仕事だった。職人だから定期昇給もない。オヤジも最初は私に好きな道を選ばせたかったようだが、得意先の意向には逆らえず、私に相談したというわけだ。
広告代理店の仕事は面白くなかったが、外出できる自由はあった。しかしオヤジの仕事に就くと、まず外には出られない。工場で、それこそ黙々と仕事をするだけだ。女性と知り合う機会は100%なくなり、私の婚期は遠のく。いや、結婚は諦めるしかない。それでも私は自営業を取った。オヤジを助けるという意味ではなく、いまの仕事にケリをつけかったからだ。
広告代理店の最終日は、とてもせいせした気分だった。苦痛だったこの仕事から、やっと解放されるのだ(3年前の5月、LPSA女流棋士が、女流棋士総会会場から出ていくときも、こんな感慨だったのではあるまいか)。最後のエレベーターに乗る時、そこにいた全社員が私を見送ってくれた。つねに私をイビッテいた上司(例の転職者だ)がまだ帰社していないのも、ありがたかった。
有給休暇はひどく少ないうえに、取れる雰囲気ではなかったので、退職時は15日ぶんの休暇が余った。言うまでもないが給料には替わらず、最後までおカネがたまらない会社だった。
自営業の肩書きになってからの私は、地味な仕事をひたすらこなした。基本的には周りに誰もいないところで、黙々と作業する。ラジオもかけなかったから、聞こえるのは自分が発する作業の音だけだ。しかしこんなものは、代理店のそれに比べたら、大したストレスではなかった。
仕事も午後6時にキッカリ終わった。給料は半分近くに減ったが、私は友人がおらず、支出がほとんどなかったので、貯金は毎月微増していった。
それから数年が経ち、女流棋界にLPSAができ、私はひょんなことから、金曜サロンに通うことになった。もし広告代理店務めを続けていたら、そういう展開にはなっていないはずで、これも運命といえようか。
しかし金曜サロンに通いだして、困ったことがあった。私はそこまでの数年間、女性とほとんど話さなかったので、女性に対しての免疫がなくなっていたのだ。
したがって女流棋士を前にして、私が今もまともに話ができないのは、その後遺症があるからなのである。
というわけで、私は代理店退社後も、JR中央線で四ツ谷駅を通るのさえイヤだった。
現在はその思いもだいぶ薄れてきて、四ツ谷アレルギーもなくなった。折しもJR四ツ谷駅は今年6月から、都内初の女性駅長が就任し、話題になった。
読売新聞東京版9月10日夕刊にも再び記事が出ているが、その女性駅長は白山弘子(しらやま・ひろこ)さん。平日はほぼ毎朝改札に立ち、乗客にあいさつをするという。17日の夕方にその駅長さんに会えるとは思わないが、いまから楽しみである。