地味さでは他のクラブの追随を許さない将棋部だが、これが男女での対局となると状況が一変する。男女がこんな近距離で数十分向かい合う競技はそうそうない。私はプロ棋士との指導対局以上に緊張し、盤に向かった。
手合いは私の二枚落ち。駒を持つ彼女の手は細く白い。しかしその彼女が序盤早々、向かい飛車に振ってきたので、私はいやな予感がした。
彼女は駒落ち定跡を知らないようだ。それはよい。だがこのまま指していけば、私が勝ってしまいそうだ。しかしそれでいいのだろうか。私がうまく負けてやり、彼女の笑顔を見ることを莞爾としたほうがよくはないか。私は迷いながら指し手を進めることになった。
恐る恐る、彼女を窺ってみる。端正な顔立ちの彼女が盤面に向かい、一心に考える姿は本当に美しい。そんな彼女の顔が苦痛に歪む姿を見たくはないが、彼女の指し手も平凡なため、我が意に反して、徐々に彼女が苦しくなってゆく。
すると、彼女が突然傍らの顧問を振り返り、
「先生~、もうダメですぅ~」
と悩ましい声を出したので、私は激しく狼狽した。
いまならまだ、手を緩めることはできる。だが彼女に花を持たせて、「あの高校の部長の棋力は大したことない」と思われたら、それはそれで癪に障る。
結局私は、自分の力をありのままに出すしかないのだった。
とはいえこちらとて二枚落ちだから一挙には決められず、真綿で首を絞める指し方になる。それが我ながらもどかしかった。
やがて形勢は一方的になり、彼女は泣きそうな声で、「負けました…」と投了した。
そしてこの瞬間、遅ればせながら私は気付いたのだった。
「この高校の部長の棋力はこんなものか」と思われたくないのは、実は彼女も同じだったのだ、と。
こんな簡単なことが私には分からなかった。将棋といえばやはり男性の土俵だ。女子が男子と指すのは相当なプレッシャーがあったことだろう。それなのに私は彼女に緩める配慮をせず、全力で負かしてしまったのだ。
泣きたいのはこちらのほうであった。将棋に勝ってこんなに辛い思いをしたのは、初めてだった。
いたたまれなくなった私は、学校を一回りすることにした。
商学部のクラブでは私の名前を速記で書いてもらい、「オレの名前はこう表記されるのか」と感心した。別のクラブでは入室記念に青い風車を頂戴し、感激しつつ胸ポケットに挿した。
趣向を凝らした各模擬店に私は大いに満足した。我が高校のそれとは充実度がケタ違いだった。
心の痛みを癒されて戻ってくると、また別の棋士がいらっしゃった。
この先生もこの前年に棋士になった若手プロだったが、何だかさえない風貌で、傍目にはとてもプロ棋士には見えない。しかし私たちから見れば、神様のような存在である。
ここで先生との指導対局となったが、周りを見渡すと、多少なりとも太刀打ちできるのは私しかおらず、恐れ多くも一対一で指導していただくことになった。
手合いは飛車落ち。この将棋もどうせ負けるだろうと初めから諦観していたが、上手に離れ駒が生じたところをすかさず▲4五歩と仕掛けたのが、我ながら機敏だった。
角交換からこちらが駒得になり、(駒落ち対局で言うのも変だが)こちらが優勢になった。しかし上手も猛烈な追い上げを見せ、私の玉は6五まで引っ張り出されてしまった。
ここで私の手番となったが、△6四歩は「打ち歩詰め」だから詰めよではない。しかし何かの拍子に詰みが生じる可能性はあるし、何より現状では喉元に短刀を突きつけられているようで生きた心地がしない。
そこで私は大事をとって▲5六桂と打ったのだが、これが悪手だった。当然△6四歩と打たれ、▲同桂△6三歩と桂馬をタダで取られては、一遍に形勢が逆転してしまった。
以下頑張ったものの、最後は力及ばず無念の投了となった。
大いに楽しみにしていたT女の文化祭。しかし10代のオシャレな棋士には劣等感を植え付けられ、憧れの女子高生との将棋ではこちらが快勝したのに悲しい思いをし、指導対局ではいい将棋を勝ち切れず、甘酸っぱい思い出ばかりが残るものとなってしまった。
これを機会にT女との永続的な交流を望んでいた私だったが、現実はそううまくはいかなかった。その後はT女との接触はなく、我が将棋部にも女子が入部することはなかった。
その後私は思うところあって大学の推薦を蹴り、ほかの大学も受けたのだが、いままで受験勉強を全然してこなかったから、受かるわけもなかった。その結果、大学附属の高校に通っていながら浪人生になるという恥をさらすこととなった。
いままで親にはさんざん苦労を掛けてきたが、この大学浪人は最たるものだと考える。そうして私は、すべてが消化不良のまま、3年間の高校生活を終えたのだった。
そして現在――。
我が高校は数年前に洒落た校舎に建て替えられ、むかしの面影はまったくない。少子化のあおりを受けてか生徒数も激減し、結果、男女生徒の比率も是正された。あの忌まわしきクラス分けはなくなり、現在は全クラス共学となっている。青春時代は異性といろいろ交わったほうがよい。クラス分けでむなしい思いをするのは、私たちの代だけで十分である。
注目の将棋部は健在だが、活動日は週2日に減り、部員も少ないようだ。
各棋士のその後は…我が校に指導に見えていた先生は、その後順位戦でA級に昇級した。もちろん現在も現役だが、その傍ら、将棋専門誌の随筆コーナーで、長期に亘って健筆を振るっている。
またT女子学園に見えたオシャレな先生は、その数年後に創設された超大型棋戦の初代タイトルホルダーとなり、一躍時の人となった。現在も、女性ファンからの人気は健在のようである。
さえない風貌の先生は、残念ながら将棋では特筆すべき活躍はなかった。ただし私生活では大ホームランをかっ飛ばした。あの数年後に、一回りも年下の女流棋士と結婚し、将棋関係者をアッと言わせたのだ。むろん現在もご夫婦ともに現役で、奥さまはT女子学園の近くにある日本女子プロ将棋協会(LPSA)の、代表理事をされている。
(了)
〔解説〕
このエッセイでは自分自身はもちろん、棋士の名前も記さなかった。それは読者に推理して楽しんでいただこう、という趣向だったからだ。
この中で私は、T女の部長に声を掛けられなず、自己嫌悪に陥る。話は飛んで昨年、私がある女流棋士に声を掛けられずに後悔するさまを見て、W氏が「大沢さん、(当時と)変わってねえなあ」と笑ったものだった。それは、W氏がこの件を読んだからである。
我が校に指導に来てくれていた先生は、もちろん真部一男九段。当時はニヒルでカッコよかった。しかしこの号が発行された翌年、真部九段は急逝する。真部九段がこのエッセイを読んでくれたのかどうか、確認できなかったのが残念である。
「オシャレな先生」は、島朗九段。元祖シティーボーイである。いまの10代棋士は、島九段ほど洗練されていない。モノが違っていた。
「さえない風貌の先生」とは、もちろん植山悦行七段。つまり、このときが植山七段と私との、記念すべき初対面である。
昨年Fuj氏がこのバックナンバーを入手し、このエッセイを植山七段が目にした。しかし「さえない風貌」と書いてあったものだから、植山七段が苦笑するやら激怒?するやらで、私も参った。
「大沢さん、このときは植山先生と会わないと思って、好きなこと書いてたでしょ」
と周りもあおったが、そんなことはない。
この号が発行される3か月前、東京・新宿でLPSAの設立イベントがあり、そのとき私は植山七段に挨拶している。横に中井広恵女流六段がいたのにもかかわらず、である。私は中井女流六段への自己紹介より、植山七段との25年ぶりの再会の喜びを優先させたのだ。このことから、いかに私が植山七段を慕っていたか、お分かりいただけると思う。
そんなわけだから、植山七段とは、この後もどこかでお会いできそうな予感は抱いていた。その上での、「さえない風貌」という記述だった。
つまりこの一節を植山七段が目にしても、植山七段には笑って許してくれると、私は見切っていたのだ。
さて、本文の最後で、ついにLPSAが出てくる。これで読者はT女子学園の正式名称を知るべく、LPSAの所在地を調べることになる。それで高校名が分かると同時に、読者がLPSA駒込サロンに行ってみたくなればシメタもの、という一石二鳥、三鳥の狙いだった。
手合いは私の二枚落ち。駒を持つ彼女の手は細く白い。しかしその彼女が序盤早々、向かい飛車に振ってきたので、私はいやな予感がした。
彼女は駒落ち定跡を知らないようだ。それはよい。だがこのまま指していけば、私が勝ってしまいそうだ。しかしそれでいいのだろうか。私がうまく負けてやり、彼女の笑顔を見ることを莞爾としたほうがよくはないか。私は迷いながら指し手を進めることになった。
恐る恐る、彼女を窺ってみる。端正な顔立ちの彼女が盤面に向かい、一心に考える姿は本当に美しい。そんな彼女の顔が苦痛に歪む姿を見たくはないが、彼女の指し手も平凡なため、我が意に反して、徐々に彼女が苦しくなってゆく。
すると、彼女が突然傍らの顧問を振り返り、
「先生~、もうダメですぅ~」
と悩ましい声を出したので、私は激しく狼狽した。
いまならまだ、手を緩めることはできる。だが彼女に花を持たせて、「あの高校の部長の棋力は大したことない」と思われたら、それはそれで癪に障る。
結局私は、自分の力をありのままに出すしかないのだった。
とはいえこちらとて二枚落ちだから一挙には決められず、真綿で首を絞める指し方になる。それが我ながらもどかしかった。
やがて形勢は一方的になり、彼女は泣きそうな声で、「負けました…」と投了した。
そしてこの瞬間、遅ればせながら私は気付いたのだった。
「この高校の部長の棋力はこんなものか」と思われたくないのは、実は彼女も同じだったのだ、と。
こんな簡単なことが私には分からなかった。将棋といえばやはり男性の土俵だ。女子が男子と指すのは相当なプレッシャーがあったことだろう。それなのに私は彼女に緩める配慮をせず、全力で負かしてしまったのだ。
泣きたいのはこちらのほうであった。将棋に勝ってこんなに辛い思いをしたのは、初めてだった。
いたたまれなくなった私は、学校を一回りすることにした。
商学部のクラブでは私の名前を速記で書いてもらい、「オレの名前はこう表記されるのか」と感心した。別のクラブでは入室記念に青い風車を頂戴し、感激しつつ胸ポケットに挿した。
趣向を凝らした各模擬店に私は大いに満足した。我が高校のそれとは充実度がケタ違いだった。
心の痛みを癒されて戻ってくると、また別の棋士がいらっしゃった。
この先生もこの前年に棋士になった若手プロだったが、何だかさえない風貌で、傍目にはとてもプロ棋士には見えない。しかし私たちから見れば、神様のような存在である。
ここで先生との指導対局となったが、周りを見渡すと、多少なりとも太刀打ちできるのは私しかおらず、恐れ多くも一対一で指導していただくことになった。
手合いは飛車落ち。この将棋もどうせ負けるだろうと初めから諦観していたが、上手に離れ駒が生じたところをすかさず▲4五歩と仕掛けたのが、我ながら機敏だった。
角交換からこちらが駒得になり、(駒落ち対局で言うのも変だが)こちらが優勢になった。しかし上手も猛烈な追い上げを見せ、私の玉は6五まで引っ張り出されてしまった。
ここで私の手番となったが、△6四歩は「打ち歩詰め」だから詰めよではない。しかし何かの拍子に詰みが生じる可能性はあるし、何より現状では喉元に短刀を突きつけられているようで生きた心地がしない。
そこで私は大事をとって▲5六桂と打ったのだが、これが悪手だった。当然△6四歩と打たれ、▲同桂△6三歩と桂馬をタダで取られては、一遍に形勢が逆転してしまった。
以下頑張ったものの、最後は力及ばず無念の投了となった。
大いに楽しみにしていたT女の文化祭。しかし10代のオシャレな棋士には劣等感を植え付けられ、憧れの女子高生との将棋ではこちらが快勝したのに悲しい思いをし、指導対局ではいい将棋を勝ち切れず、甘酸っぱい思い出ばかりが残るものとなってしまった。
これを機会にT女との永続的な交流を望んでいた私だったが、現実はそううまくはいかなかった。その後はT女との接触はなく、我が将棋部にも女子が入部することはなかった。
その後私は思うところあって大学の推薦を蹴り、ほかの大学も受けたのだが、いままで受験勉強を全然してこなかったから、受かるわけもなかった。その結果、大学附属の高校に通っていながら浪人生になるという恥をさらすこととなった。
いままで親にはさんざん苦労を掛けてきたが、この大学浪人は最たるものだと考える。そうして私は、すべてが消化不良のまま、3年間の高校生活を終えたのだった。
そして現在――。
我が高校は数年前に洒落た校舎に建て替えられ、むかしの面影はまったくない。少子化のあおりを受けてか生徒数も激減し、結果、男女生徒の比率も是正された。あの忌まわしきクラス分けはなくなり、現在は全クラス共学となっている。青春時代は異性といろいろ交わったほうがよい。クラス分けでむなしい思いをするのは、私たちの代だけで十分である。
注目の将棋部は健在だが、活動日は週2日に減り、部員も少ないようだ。
各棋士のその後は…我が校に指導に見えていた先生は、その後順位戦でA級に昇級した。もちろん現在も現役だが、その傍ら、将棋専門誌の随筆コーナーで、長期に亘って健筆を振るっている。
またT女子学園に見えたオシャレな先生は、その数年後に創設された超大型棋戦の初代タイトルホルダーとなり、一躍時の人となった。現在も、女性ファンからの人気は健在のようである。
さえない風貌の先生は、残念ながら将棋では特筆すべき活躍はなかった。ただし私生活では大ホームランをかっ飛ばした。あの数年後に、一回りも年下の女流棋士と結婚し、将棋関係者をアッと言わせたのだ。むろん現在もご夫婦ともに現役で、奥さまはT女子学園の近くにある日本女子プロ将棋協会(LPSA)の、代表理事をされている。
(了)
〔解説〕
このエッセイでは自分自身はもちろん、棋士の名前も記さなかった。それは読者に推理して楽しんでいただこう、という趣向だったからだ。
この中で私は、T女の部長に声を掛けられなず、自己嫌悪に陥る。話は飛んで昨年、私がある女流棋士に声を掛けられずに後悔するさまを見て、W氏が「大沢さん、(当時と)変わってねえなあ」と笑ったものだった。それは、W氏がこの件を読んだからである。
我が校に指導に来てくれていた先生は、もちろん真部一男九段。当時はニヒルでカッコよかった。しかしこの号が発行された翌年、真部九段は急逝する。真部九段がこのエッセイを読んでくれたのかどうか、確認できなかったのが残念である。
「オシャレな先生」は、島朗九段。元祖シティーボーイである。いまの10代棋士は、島九段ほど洗練されていない。モノが違っていた。
「さえない風貌の先生」とは、もちろん植山悦行七段。つまり、このときが植山七段と私との、記念すべき初対面である。
昨年Fuj氏がこのバックナンバーを入手し、このエッセイを植山七段が目にした。しかし「さえない風貌」と書いてあったものだから、植山七段が苦笑するやら激怒?するやらで、私も参った。
「大沢さん、このときは植山先生と会わないと思って、好きなこと書いてたでしょ」
と周りもあおったが、そんなことはない。
この号が発行される3か月前、東京・新宿でLPSAの設立イベントがあり、そのとき私は植山七段に挨拶している。横に中井広恵女流六段がいたのにもかかわらず、である。私は中井女流六段への自己紹介より、植山七段との25年ぶりの再会の喜びを優先させたのだ。このことから、いかに私が植山七段を慕っていたか、お分かりいただけると思う。
そんなわけだから、植山七段とは、この後もどこかでお会いできそうな予感は抱いていた。その上での、「さえない風貌」という記述だった。
つまりこの一節を植山七段が目にしても、植山七段には笑って許してくれると、私は見切っていたのだ。
さて、本文の最後で、ついにLPSAが出てくる。これで読者はT女子学園の正式名称を知るべく、LPSAの所在地を調べることになる。それで高校名が分かると同時に、読者がLPSA駒込サロンに行ってみたくなればシメタもの、という一石二鳥、三鳥の狙いだった。