一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

文化祭1982(前編)

2012-08-13 00:05:50 | 将棋ペンクラブ
同人誌「将棋ペン倶楽部」2007年秋号(通巻48号)に掲載された、「文化祭1982(イチキュウハチニ)」を3回に分けて掲載する。
同誌には20回近く拙稿が掲載されているが、これは私が最も好きな作品である。
現在当該号はバックナンバーもなく、入手困難である。発表から5年近くが経っており、ここに再掲しても問題ないと判断した。なお、本文には若干の加筆修正をほどこした。では、どうぞ。


「文化祭1982」

かつて私が通った高校は一応男女共学だったが、その比率は男子4に対し女子1で、偏差値は女子のほうが5つほど高かった。男子はふつうの学ランだったが女子はシャレたブレザーで、ここからも女子が優遇されているのが分かった。
そしてさらに特徴的だったのが、そのクラス分けった。
男女比が4:1なら、クラスの中だって同じ比率になると誰もが思う。ところが私の高校は男女比1:1の「共学クラス」と、男子のみの「男子クラス」があったのだ。
入学式で配られたクラス表でそのシステムが分かった時の動揺、共学クラスになかなか自分の名前を見つけられず、観念して男子クラスに目を転じ、その中に自分の名前を発見してしまった時の落胆は、今もって忘れられない。
私の高校は、その2年前に夏の高校野球甲子園大会でベスト8まで勝ち進んだため、翌年は大量の生徒が入学した。そのためそのうちの何クラスかは、本館の対面に建つ新館の教室に配された。当然私の学年になっても本館の教室が足りず、この年も私のクラスを含めた3クラスだけが、新館に配された。
これは上級生の目がないぶん気は楽だったが、私以外の2クラスは共学クラスだったので、廊下では女子とすれ違うが教室には男ばかりという、いわば蛇の生殺し状態であった。
そんな状況に耐えきれず、何とか女子と友達になりたいと華道部に入る級友もいたが、私はそんな軟弱ではない。迷わず将棋部に入部した。
とはいえ将棋部だって、女子が皆無とは限らない。何人か在籍しているかもしれないし、同級生が入部してくる可能性だってある。
しかし現実はやはり厳しかった。将棋部の諸先輩はいい方ばかり、顧問の先生もまずまずだったが、女子部員に関しては期待外れと言わざるを得なかった。同級生の入部はなく、先輩はといえば、3年生に2名いたことはいたが、ほとんどクラブには顔を出さず、たまに来てもおしゃべりをするだけですぐに帰ってしまう。ただ籍を置いているだけの、幽霊部員だった。
そんな将棋部でさらに不満を書けば、部費がほとんど出ないことだった。
将棋部ならば、棋力向上の助けとして将棋専門誌の購入は必須であろう。しかし私の高校では、部費での書籍購入は認められていなかった。
だが運動部がスポーツ誌を買うのとはワケが違う。将棋部はその世界の最新情報を入手したいのではなく、実務レベルでの購入を欲しているのだ。
しかし例外は認められなかった。他に部費をもらう口実もなく、私たちは、顧問の先生が自費で購入し寄贈?してくれた将棋雑誌のバックナンバーを、さみしく読むしかないのだった。
恐らく将棋部は、全クラブの中で最低の部費だったのではあるまいか。そして同時に、将棋というのは本当におカネのかからない競技だということも痛感した。盤と駒があればそれを買い換える必要もなく、永久にクラブを存続できるのだ。
しかしそんな将棋部にも、学校側が多額のおカネを出してくれる時があった。
毎年11月2、3日に開かれる文化祭である。その3日にプロ棋士をお招きし、指導対局が行われるのだが、この指導料を学校側が大盤振舞いしてくれるのである。
来られる先生は毎年同じで、当時「棋界のプリンス」と謳われ、その人気度では将棋界で十指に入るほどの、気鋭の棋士だった。
そんなに大人気の棋士が、何が縁でこんな弱小将棋部に来てくれることになったのか現在では知る由もないが、ともあれ私は大いに驚き、その指導料はいくらなのか、顧問にさりげなく訊いてみた。すると目玉が飛び出るような数字が出て、私は再び驚いた。
そんなおカネがあるのなら、その10分の1でも部費に回してくれれば、2種の将棋専門誌が1年近く購入できる。どうしてそういう考えが学校には起こらないのか、私は改めて顧問に訴えた。だが文化祭でプロ棋士を招待することは、学校としても自慢の行事であるらしく、その考えは今後も変わらないだろう、とのことだった。
そして11月の文化祭になった。
といっても我が将棋部は、教室内に「歓迎!!○○先生」などと横断幕を張ることもせず、普通に将棋盤を並べただけの、あっさりした造りであった。将棋部は、男のクラブなのだ。
3日になって、いよいよ先生が来校された。初めて生で見るプロ棋士はやはりオーラがあり、どこか近寄り難い雰囲気もあった。
一応8面ほど将棋盤を用意したが、一般客らが対局者に名乗り出ることはなく、結局、将棋部員が対局相手になった。私は二枚落ちで教えていただいたが、いいところなくあっさり負かされた。何しろ指す前から心臓の鼓動がすごく、手を読むどころではないのだから、勝ち負け以前の話だ。
他の対局者は、2年生の先輩が角落ちで勝利し気を吐いたが、ほかの部員は全員負かされ、プロ棋士の強さを改めて見せつけられた形となった。
翌年の4月になった。冒頭に述べた通り、我が高校はクラス替えの重要度がほかの高校とは桁違いだ。「共クラ」になるか「男クラ」になるかは、天国と地獄ほどの差がある。
とはいえ私は、今年は大丈夫と楽観していた。前年は「武道」で柔道を選択した男子が共クラになったが、今度は私が選択した剣道クラスが共クラになる番だったからだ。
だがこの年も私は、あろうことかまたも男クラになってしまったのだった。考えてみれば、男女の比率から2年連続男クラの生徒が現れるのは当然で、それに当たってしまった私は運がなかったのだ。
2年時の私のクラスは本館の4階に配された。しかし同じフロアの他の2クラスもやはり男クラ。角にある音楽室の先には共クラがあったが、ここは防音のため、廊下が非常扉で常に塞がれていた。つまり私のクラスのあるフロアは男クラばかりとなり、いよいよこの一帯は男子校の雰囲気になってしまったのだ。
これでは1年生のときより劣悪な環境である。共クラを楽しみに1年間耐えてきただけに、この年の男クラは本当に堪えた。
私の高校は大学附属だったので、受験勉強で焦ることもない。私は前年の文化祭の時に部長に選任されており、いよいよ私は、将棋に打ち込むしか道がなくなってしまったのだった。
そのころ将棋界では、この前年に13歳の中学生女流棋士が時の女流名人から女流王将を奪取、勢いに乗ってこの年も女流名人位を獲得し、世間の話題をさらっていた。
しかしそんなニュースも起爆剤とはならず、この年も女子の入部はゼロ。その代わりといってはなんだが、熱心な男子が何人か入部してくれたのは有難かった。
私は部長の特権を利用し、週3回のクラブの活動を月曜から金曜まで週5回にした。次に野球のペナントレースを真似て、各人全130局を指すリーグ戦を設け、棋力の向上に日々研鑽した。
将棋を指すのは楽しい。だがここに至っては、さすがに女子との対局は諦めていた。しかし世の中、何が起こるか分からないから面白い。
この年の秋、信じられない話が持ち上がった。11月の文化祭に、隣の区にあるT女子学園との交流を行うことが突如決まったのだ。
(つづく)
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