一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

叡王戦と天王戦

2019-06-12 00:25:57 | 男性棋戦
先ごろ、第5期叡王戦の予選組み合わせが発表された。
叡王戦は第3期から公式戦に格上げされたが、第1期からの大きな特色は、段位別予選を導入したことである。
言うまでもないが大半の棋戦は、順位戦のクラスを参考に、上位クラスが優遇される。すなわち一次予選の免除などである。だが叡王戦は、順位戦A級八段もC級2組八段も、同じスタートラインから戦うのだ。よって、古くて新しいカードが出現したりする。
この方式はかつての天王戦(てんのうせん)と同じである。天王戦は1985年から1992年まで行われていた棋戦。前身は日本将棋連盟杯争奪戦で、17年間行われた。天王戦の主催は、地方新聞社10社。
天王戦は各段から2名が本戦に出場した(例えば第1回の七段戦は最少14名で、最短2勝で本戦に出られた)。このあおりを食ったのがタイトルホルダーで、第1回天王戦は、タイトル保持者が軒並み敗れるという波乱が起きた。
ただし、当時のタイトルホルダーは全員九段で、しかも九段戦に限り、激しいシード制が敷かれていた。すなわち、中原誠名人は2回勝てば本戦出場なのに対し、C級2組の小堀清一九段や五十嵐豊一九段などは、5勝を必要とされた。それでもタイトルホルダーが敗れたのだから、言い訳はできない。
ちなみに決勝戦の顔合わせは、加藤一二三九段と塚田泰明六段(開始時は五段)となった。決勝戦は千葉市「仙松苑」で指され、同時にイベントも行われたものである。
ついでなので、第8回までの優勝者を記しておこう。

第1回 1985年 加藤一二三九段
第2回 1986年 高橋道雄王位
第3回 1987年 羽生善治四段
第4回 1988年 羽生善治五段
第5回 1989年 谷川浩司名人
第6回 1990年 森下卓六段
第7回 1991年 谷川浩司竜王
第8回 1992年 高橋道雄九段

段位別の予選だと、実力者同士の星のつぶし合いがあり、第3期叡王戦のように、意外な棋士のタイトル戦が実現したりする、と思う。
しかし天王戦はタイトル保持者が3回優勝しているし、四段と五段の優勝者も羽生九段である。結局実力者が優勝しており、やはり強者はどんな条件でも勝つのである。
第3期叡王の高見泰地七段も、当時は鬼神ばりに強かったのだろう。
なおまったくの余談になるが、大山康晴十五世名人と中原十六世名人の最後の対局が、この天王戦だった。1992年4月2日の対局だから、大山十五世名人の最晩年にあたる。記録係は林葉直子女流五段。
将棋は後手番大山十五世名人の四間飛車に、中原名人の棒銀。大山十五世名人は△3二金と上がった後、例によって△7二飛と袖飛車に構えたが、中原名人の指し回しが冴え、名人の完勝に終わった。もう大山十五世名人には、名人に勝つ体力が残っていなかった。
さらに書けば、両名人の初対局が1967年11月21日の第11期棋聖戦なのは有名だが、第2局は1968年12月1日に指された、日本将棋連盟杯争奪戦・記念対局だったのは、あまり知られていない。

天王戦は1993年、棋王戦に統合され、前述の通り、わずか8年でその名称が消滅した。当時、棋戦がなくなった、とつぶやく棋士に対し、大内延介九段が「なくなったのではない、統合されたのです」と諫めていたものである。
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