今日は、同窓会のダブルへッダーだったのだが、前半の同窓会では、K大のT先生の講義付きだった。
「福沢諭吉と会社」という演題だったが、ひじょうに興味深い内容だったので、ご紹介。
福沢諭吉は、数度にわたって海外渡航しているのだが、その中で、最大規模のものは、1862年1月から、1863年1月までの欧州渡航だ。香港、シンガポール、スリランカ、スエズを通って、マルセーユに上陸し、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリン、ペテルブルグ、リスボン等を回った、大旅行であった。一流ホテルばかりを使ったまさに大名旅行だったという。
その際、西洋の様々な制度、社会の仕組みを学び、西洋事情目録を著わした。目次を見ると、政治、収税法、国債、紙幣、商人会社、外国交際、兵制、文学技術、学校、新聞紙....今でも、十分通じる項目立てだ。
もちろん、あまりに西洋一辺唐ナあるという非難もあるのだが、これらの情報が、明治維新後の日本の大発展の基礎になったことは間違いない。もたもたしていたら、日本もどっかの植民地になっていただろう。
商人会社の項では、いわゆる会社とは何ぞや?ということを説明している。それまで、日本には、個人によるビジネスしかなく、会社という概念そのものがなかった。福沢諭吉は、それを当初商人会社と名付けた。福沢諭吉が作った日本語は、数えきれないほどあり、それだけでも凄いのだが。
その商人会社の説明の中で、「アクション」という言葉が、株式を説明する部分で使われている。このアクションという言葉は、フランスでしか使われておらず、何故「ストック」とか、「シェア」という言葉が使われなかったのだろうか?
その秘密が、この渡航ルートにあるというのだ。スペインに入り、フランスを経由して、イギリスに行っているのだ。イギリスが、一番の目標だったはずであるが、途中でもいろんな知識を吸収していったに違いない。
当時フランスには、レオンド・ロニさんという亜細亜オタクがいたという。この亜細亜オタクは、日本語の先生もいないのに、何故か日本語が堪能だったという。当時フランスでは、オリエンタルブームだったかと思うので、何らかのルートで日本語の知識が伝わったものと思われるのだ。
その亜細亜オタクが、日本から使節団が来るということで、大歓迎し、どのようにコミュニケーションをとったのかわからないが、福沢諭吉に西欧社会の仕組みを教え、その時に、このフランス語が使われたのではないかというのだ。だから、日本は、会社の仕組みをまずフランスから学んだということになるらしい。
文明開化前のほほえましいエピソードではないか。