諏訪社の大祝(おおほふり)であった諏訪頼重。
この大祝(おおほふり)とは、「風林火山」のHPに説明が載っていました
「諏訪社の神職の最高位。神の子孫と考えられており神を祀る存在であると同時に体に神が宿る現人神(あらひとがみ)とされていた。」
なにやら凄いポジションにいた人なんですね。それなのにこの方の身近な者達には、カリスマ性がなかったのでしょうか。神の子孫とされていた一族なのに、如何に調略されたからといって、最後に城に残っていたのは20数名だったなんて・・・と、前のことも引きずってしまいます。奇妙な不一致感があるからです。
歴史の登場人物は、「明らか」ではないゆえに様々なイマジネーションの素材になりますが、例えば山本勘助しかりです。人にはあらずと言わしめた鬼人の如しの軍師も、そうやって誕生してきたのだと思いますが、この諏訪頼重は、歴史の表舞台のヒーローにはならないかもしれないけれど、角度を変えれば、なかなか面白い役柄が出来そうな気がします。「Sengoku妖魔大戦」とかね。
禰々の子供の寅王丸の運命は「風林火山」の中では、これからの物語になるわけですが、何処までやるのでしょうか。心痛の禰々の亡き後、忽然と歴史の表舞台から消えてしまうことは、他の方のブログにも書かれていますし、気になる方はリサーチ済みだと思うので、書いてしまいますが、誰もがそれで暗に思うことは、ansatu と言う言葉かも知れません。ですが「明らか」ではないゆえに、違った人生も私たちは想像し生かしていくことも出来るのです。例えば先に書いた物語の主人公だったりとか。
ある物語では、車窓から見た風景のようにあっという間に消え去ってしまう人生でも、違う物語の主人公にはなれるのです。
そんな事考えているから、いつも記事のUPが遅いのかと言われそうですが、違うと言いたい所ですが、ちょっぴりそうです。「忽然と歴史の表舞台から消えた」と言われたりすると、関係ないのに、そういえば三法師ってどうしたんだろうとか調べたりしちゃって、頭の中の連想ゲームは、止まりません。
いかにもkiriyワールド全開の書き出しになってしまいましたが、これもその連想ゲームゆえです。
今回は心に残るシーンがいくつもありました。
その一つは諏訪頼重が勘助に寅王丸の行く末を、切々と頼みこむところです。だけど、その行く末を思うと・・・というわけで、今回の書き出しになったわけです。
最後の宴になってしまった、あのシーンも良かったですね。禰々と頼重のどちらともなく差し出した手を握り合うシーンです。どちらともなくは違いましたね。禰々の差し出したと書くべきでしょうか。でも、切なかったですね。
今回の解説係は重臣の皆様でしたね。
―勘助は人にあらず、御屋形様のためならば鬼にもなる―
前回の教来石景政はかなり危なかったわけです。怖いけれど半端ではない人は、人々の信用を得ていくことが出来るのでしょうか。重臣の皆様にかなり認められてきたような気がしました。
そういえば小山田様、一人角度も違って、話を振っていましたね。ファンサービス ・・・というわけではないですね。
それで、最後はやっぱり由布姫と勘助ですよね。
良かったですよ~、もう。由布姫は頑張りました。こんな褒め方では褒めているようには感じないかも知れませんが、
―生きて、この世を見たいのです。生き地獄であったとしても。
自分の気持ちを伝えた後、意識を失ってしまうほどの緊迫感と言うものが、私にも伝わってきました。
そして、このシーンは凄いと思いました。
ミツと言う可憐な花は、この瞬間のために咲き続けていたのだと思います。そうでなければ、先頭を切って鬼のように、「斬る消す殺す」と言っていたのに、どんなに姫が気丈で気高くても、一刹那でその考えが変わるわけはナイのです。勘助の人生にミツが存在していたからこそ、考えを変える事が出来たのですね。
さすが~と思って見ていました。それから、由布姫ですが、私、彼女が好きになりました。このシーンがジーンときたからです。
「よし面白くなってきたぞ」と気合も入って言ったら
「え~、そう。姫の話なんかどうでも良いや。」って、だんな。
―ヒェー、あなた。「風林火山」って由布姫と勘助の話じゃないの~
と思いましたが、めんどくさいので黙っていました。