昨年(2007年)の9月20日に、私は「ロストハウス」に収められていた、この物語を読みました。 どうしてそんな日にちまで覚えているのか不思議に思うでしょうか。
去年の今頃、私はイギリスに行く事前準備中。いろいろリサーチをしていました。その中でワーズワースの「虹」と言う詩のことを書きました。
「共鳴するのはここですか」と問うて、
So be it when I shall grow old,
Or let me die!
の「Or let me die! 」を私はどうしても打ち込むことが出来なくて「・・・・」と書きました。
この四つの点にはいろいろな思いが凝縮されていたのです。
その記事はコチラにあります→☆
私がその時「8月に生まれる子供」を読んだばかりでなかったら、私はそこに「感性の死は詩人の魂の死であり、『さもなければ僕に死をあたえよ』と言う想いに共鳴し、その底辺に詩人の覚悟を感じて感動します。」と、「虹」の詩の感想を結んだと思うのです。
その気持ちも嘘ではありません。が、書けませんでした。
なぜなら、感性が死のうと、記憶が途絶えようと、アイデンティティーが消滅しようとも、それでも「命」として存在し続ける重い意味を、この「8月に生まれる子供」は、私に語りかけてきたからでした。その時、私の心の中には相反する二つの想いが混在していました。ゆえにそれが「虹」のその感想が書けなかった理由です。
18才の種山びわ子は大学生。明日から夏休みと言うその日、ボーイフレンドとのデート中、びわ子の行動は変なことばかりでした。それが原因でその日は喧嘩別れのようになってしまいます。でもそれは病気の症状の表れだったのです。びわ子の病気は急速に老化するというものでした。7月、8月を経て、その時びわ子は・・・・。
びわ子がメチャクチャな文字で書く手紙
「父上様 母上様 皆様
前文を撤回いたします
いつの日かわたしが異常をきたし
たとえ・・・・・・・」
「・・・・」の部分はネタバレになってしまうので書きませんが、たとえこの物語を読んで、涙に掻き暮れたとしても、それは「可哀相」とか「同情」の涙ではないはずです。
このブログの「ワーズワースの詩」の日付から、私の日常日記をつけている「梢は歌う」の同時期の日付を見ると、
「ウォーキングをしながら昨日読んだ『8月に生まれる子供』の物語を友人に話した。」と言う文がはっきりと書いてあって、その日付が9月21日。それで、この物語をいつ読んだかが分かったというのが、文頭の「9月20日に読んだ。」の日付まで覚えていることの種明かしなんです。
その時友人が言いました。
「漫画なんかにもそんなのがあるんだ。」
この「なんか」に反応してはいけません。漫画に対しての考えは年齢によって微妙な所があるからです。でも、私は偉そうに言いました。
「そうよ、文学も漫画も表現の仕方が違うだけで、ランクなんてないのよ。」
でも、漫画に対して「文学的」と言うと、なんとなく褒め言葉のような気がしてしまいます。なんとなく矛盾していますね。
暑い夏を経て秋の夜に落ちていく、そんな季節の 一人の時間に是非お読み下さい。自信を持ってお薦めできる短編です。
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↓映画の「グーグーだって猫である」に出てきた漫画を集めたものらしいです。「ダイエット」「四月怪談」は超お奨めです。
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9月14日、「グーグーだって猫である」を観てきましたが、まだ感想は書いていません。「あるよ!<2>」で違う漫画の感想を書く予定でしたが、映画繋がりでこちらを先に書きました。
近頃、漫画感想ブログ運営中・・・