「あんぱん」で「だんな」じゃないですよ。
「あんでぱんだん」
やっぱり夏の緑って、アンリ・ルソーの絵を連想してしまいます。
同じ事を、2007年の8月1日、夏真っ盛りに書きました。→「八月葉月は光がきらり」
毎年同じことを思う。そう、同じ人ですから、私。
それで「あんでぱんだん」の意味ですが、それは「自主・独立」。その事は→「さらば涙と言おう」に。
リンクに飛んでも過去の記事に飛ぶだけなんですが、gooはタグがないから、時々関連記事繋げたくなってしまうのですよ。
この記事は7月1日にアップしようと書き始めました。なんと言っても「ついたち」と言う日は大切です。月の初めにいろいろ決意する。2010年の下半期の最初の日にアレヤコレヤと考える。私の好きなスタンスですね。
でも近頃時々ちょっとうんざりする事があって、この場所に心が向かわない時が多々ありました。そんな時、ツイッター記事に助けてもらったりして、更新してきました。そんなに無理して更新しなくたって良いのにと思う人もいるかもしれませんが、それはそうじゃないんですよ。
ブログを始めた時の私のテーマのひとつ。
「私はここにいます。」
このブログを止めない限りは、そのテーマには添っていこうと思っているからです。
と言う事は、少々嫌な事があっても乗り越える力を持つことが大切なのだと思います。
乗り越える力と、突き進む力。どんな小さな出来事に対しても、それは共通してあることだと思います。人から見ればささやかな悩みであっても、そんな悩みを乗り越えていく、かわしていく事によって、自分の力を溜め込んでいく事が出来るのだと思います。
「自主・独立」、
人はある時には規制の概念からのそれを図るために、大きな旗を振らなければならない時もありますね。
でも、ささやかな毎日を送る私たちにも、昨日までのがんじがらめに陥った思考から自分を解放する、そんな「時」があるのだと思います。
アンリ・ルソーが描く様な、濃い夏の緑。
そんなものからも、何気なくいろいろなことを感じたり学んだりする事が出来る、生きるって素晴らしい事ですね。
この記事、書き出しから時間が空いてしまいました。それでもうひとつお話を。
6年生の国語の問題集の問題に、こんなものがありました。
パスカルが言った名言
「人間は考える( )である」
( )の中に、この問題の後ろにある例題から言葉を選んで記号を入れるのです。
でも、ある少女の回答には、そこに「動物」と書かれていました。
ただ言葉を入れるだけだったら、バツにはしたくない回答だと思いませんか。
「ここに『パスカル』と、言った人の限定があるからね。しかも『人間は考える動物である。』では、あまりにも普通だし・・」
うーん、そう言ってしまってから、確かに普通っちゃあ普通だが、なんだかとっても大切なシンプルな言葉だと感じました。
「ふふふ、しかも記号じゃないし。」と少女は笑いましたが、正解が分かりません。
葦が何なのかが分からないと、ちょっと難しい「知識問題」です。こう言うのは一回は答えを教えても良いのです。
「『人間は考える葦である。』、あっ、足じゃないのよ。足を入れると気持ち悪いし、『考える足』とか言うと、意味不明か、さらに哲学的になってしまうから。」
決まりきったようなボケを入れて、少女を笑わせてから
「葦って言うのはね・・」
・・以下省略
ただ、名言として残っていくものは凄いですね。「動物」である部分を葦に例えるだけで、人間はどんなものであるのかを表現しきってしまうのですから。
だけど、少女が問題を最期まで読まずに、、そこに「動物」と書き込んだのは、閃いてその閃きが嬉しかったからだと推理する事も出来るのです。しかしどんなに私が気に入っても、この問題はバツ。しかも偉い偉いと褒める所でもないんですね。
嬉しくても、グッとそこは押さえ問題を最後まで読み、分からなければ、ことわざ事典を引いて見るとか(ことわざじゃないけれど、載っている場合が多い)、例の言葉を辞書で引いて正しい答えを出すのが本来の道筋って言うものです。
でもね、そこは人それぞれ。
「いやあ、『パスカルの』と言う言葉がなかったら、 『人間は考える動物である。』。ああ、本当だと思って、丸をつけてあげたいわ~。だってね、人間は本当に考える事が出来る動物なんですよ。分からないなと思ったら考える。やっぱり分からないなと思ったらさらに考える。どうしようと思っても考える。困ったなと思うことがあっても、考える。それが出来るのは人間だけなんですからね。」
と言うわけで、下半期もがんばっていきましょう♪
いや、本当の事は誰にも分からない。百年先の日本を憂いてきりリと未来を見つめている鳩ではないと、誰が言えるのだろう。
「あんでぱんだん」
やっぱり夏の緑って、アンリ・ルソーの絵を連想してしまいます。
同じ事を、2007年の8月1日、夏真っ盛りに書きました。→「八月葉月は光がきらり」
毎年同じことを思う。そう、同じ人ですから、私。
それで「あんでぱんだん」の意味ですが、それは「自主・独立」。その事は→「さらば涙と言おう」に。
リンクに飛んでも過去の記事に飛ぶだけなんですが、gooはタグがないから、時々関連記事繋げたくなってしまうのですよ。
この記事は7月1日にアップしようと書き始めました。なんと言っても「ついたち」と言う日は大切です。月の初めにいろいろ決意する。2010年の下半期の最初の日にアレヤコレヤと考える。私の好きなスタンスですね。
でも近頃時々ちょっとうんざりする事があって、この場所に心が向かわない時が多々ありました。そんな時、ツイッター記事に助けてもらったりして、更新してきました。そんなに無理して更新しなくたって良いのにと思う人もいるかもしれませんが、それはそうじゃないんですよ。
ブログを始めた時の私のテーマのひとつ。
「私はここにいます。」
このブログを止めない限りは、そのテーマには添っていこうと思っているからです。
と言う事は、少々嫌な事があっても乗り越える力を持つことが大切なのだと思います。
乗り越える力と、突き進む力。どんな小さな出来事に対しても、それは共通してあることだと思います。人から見ればささやかな悩みであっても、そんな悩みを乗り越えていく、かわしていく事によって、自分の力を溜め込んでいく事が出来るのだと思います。
「自主・独立」、
人はある時には規制の概念からのそれを図るために、大きな旗を振らなければならない時もありますね。
でも、ささやかな毎日を送る私たちにも、昨日までのがんじがらめに陥った思考から自分を解放する、そんな「時」があるのだと思います。
アンリ・ルソーが描く様な、濃い夏の緑。
そんなものからも、何気なくいろいろなことを感じたり学んだりする事が出来る、生きるって素晴らしい事ですね。
この記事、書き出しから時間が空いてしまいました。それでもうひとつお話を。
6年生の国語の問題集の問題に、こんなものがありました。
パスカルが言った名言
「人間は考える( )である」
( )の中に、この問題の後ろにある例題から言葉を選んで記号を入れるのです。
でも、ある少女の回答には、そこに「動物」と書かれていました。
ただ言葉を入れるだけだったら、バツにはしたくない回答だと思いませんか。
「ここに『パスカル』と、言った人の限定があるからね。しかも『人間は考える動物である。』では、あまりにも普通だし・・」
うーん、そう言ってしまってから、確かに普通っちゃあ普通だが、なんだかとっても大切なシンプルな言葉だと感じました。
「ふふふ、しかも記号じゃないし。」と少女は笑いましたが、正解が分かりません。
葦が何なのかが分からないと、ちょっと難しい「知識問題」です。こう言うのは一回は答えを教えても良いのです。
「『人間は考える葦である。』、あっ、足じゃないのよ。足を入れると気持ち悪いし、『考える足』とか言うと、意味不明か、さらに哲学的になってしまうから。」
決まりきったようなボケを入れて、少女を笑わせてから
「葦って言うのはね・・」
・・以下省略
ただ、名言として残っていくものは凄いですね。「動物」である部分を葦に例えるだけで、人間はどんなものであるのかを表現しきってしまうのですから。
だけど、少女が問題を最期まで読まずに、、そこに「動物」と書き込んだのは、閃いてその閃きが嬉しかったからだと推理する事も出来るのです。しかしどんなに私が気に入っても、この問題はバツ。しかも偉い偉いと褒める所でもないんですね。
嬉しくても、グッとそこは押さえ問題を最後まで読み、分からなければ、ことわざ事典を引いて見るとか(ことわざじゃないけれど、載っている場合が多い)、例の言葉を辞書で引いて正しい答えを出すのが本来の道筋って言うものです。
でもね、そこは人それぞれ。
「いやあ、『パスカルの』と言う言葉がなかったら、 『人間は考える動物である。』。ああ、本当だと思って、丸をつけてあげたいわ~。だってね、人間は本当に考える事が出来る動物なんですよ。分からないなと思ったら考える。やっぱり分からないなと思ったらさらに考える。どうしようと思っても考える。困ったなと思うことがあっても、考える。それが出来るのは人間だけなんですからね。」
と言うわけで、下半期もがんばっていきましょう♪
いや、本当の事は誰にも分からない。百年先の日本を憂いてきりリと未来を見つめている鳩ではないと、誰が言えるのだろう。
