森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

たとえ古い水夫でも

2017-01-24 00:44:01 | 梢は歌う(日記)

あの歌、好きですよ。

吉田拓郎の「イメージの詩」。その歌詞は→こちらなどで

昔はしっかり自分の事を新しい海に乗り出す新しい水夫だと思っていました。だけどいつの間にか私も古い水夫になってしまったと思います。

 

この歌の歌詞を、何気に今読み返してみて、ふと、じゃあ古い水夫は何処にいるんだろうなんて思ってしまったのです。気にも留めなかった昔。でも今は自分が古い水夫なのですから、考えないわけにはいきませんよね。

私は長い年月の間に、ちょっと脳内誤作動が起きて、新しい水夫は新しい船に乗り込んで新しい海に乗り出していくんだろうと思っていたように思います。だから古い水夫は古い船に乗っていて、その古い船の乗組員と仲良く波間を漂って居れば良いと言う、まさにそう言う「イメージ」を作り上げていたかもしれません。

でも古い船に乗り込んでくるのは新しい水夫。そりゃそうですよね。古い船と言うのは、この日本であり出来上がっているこの社会だと思うのです。そうすると古い水夫は、岸辺に残って椅子を出し背中を丸めて囲碁でも打ってればという構図になってしまうのでしょうか。

それとも岸辺に建てられた終の棲家の施設と言う所の順番待ちを、静かに待っていろと言うのでしょうか。

 

いやいや、たとえ古い水夫になってしまったと言えども、陸に上がってボーっとしている、そんな事を新しい海は許してはくれないのですよね。

 

ああ、そうだと閃いて、自分のブログ内を「新しい水夫」と言う言葉でセルフ検索しました。

2006年のつま恋の記事の「聖なる場所に祝福を―つま恋」の中で、こんな自分の言葉を見つけました。

何時の間にやら、私たちは新しい水夫ではなくなってしまった。それでも、古い水夫達の古い船は、「我らの時代」の海を渡っている。私たちの船は、新しい船の先導でいよう。

そうかあ~、そうなのかあ~。10年前の私は、「新しい船の先導でいよう。」などと思えたんだ・・・・・・・・。

 

思わず頭を抱えて、うーんと唸ってしまいたい衝動に駆られました。

今の私は陸に上がって出港する船に手を振って、自分自身はボー状態。

でも「今の時代」と言う新しい海は、それを許してはくれないのです。たとえガタピシ言っている古い船であろうともそれに乗って、何かしろ、何とかこの海を渡れと命じるのです。

たとえ古い船の中で役割がなくても、スミの床を磨くような仕事をし、たとえ新しい船の機器の使い方が分からなくても衰えて行く脳に鞭をふるい、その船に無理やり乗りこめと言うのです。

 

時代という海に溺れて沈まないように老いの道を歩むのは、それなりに努力っているよねなどと思った今日この頃なのでした。

 

 

 

※        ※         ※

昨日、ラッタさんにメールを送りました。

 「スマホ、買い替えました。」←ほぼ7年使った前のスマホはマーケットを開いても空っぽでラインもポケモンも出来ないただの電話機

「やっと、文明人になれたか。」

「何を買ったんだね。」

「エクスペリア」←写真重視で

「使いこなせるのかね?」

「チョー苦戦中」

「仕方が無いよ。昨日まで石器時代の住人だったんだから。」

 

ああ、時代の海に溺れそう・・・・・・

 

コメント (6)
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