印象深い順に書くとしたら、私の場合、やっぱりあのシーンになってしまいます。
「仏罰など何もなかった。何も。」と言いながら、首だけになった石仏の頭をペチペチと叩くシーン。
それを嫌な顔をしてみていた光秀。
この物語の中の信長は、すこぶる聡明に見えて、そして実際にあらゆる場所で斬新な思考で結果を出していたわけだけれど、ある視点では、「ちょっとナの人」だったんだなと私は思ってしまいました。
子供の頃ならいざ知らず、あの時の母上の言葉の本意と言うものは分かりそうなものではないですか。
仏の心は私たち凡夫と同様なものではないのではないでしょうか。禁を犯したら、そく罰なんて事はないと思います。昔からよくあるしつけの手段として仏罰と言う言葉を借りたと言うか利用したに過ぎないのですよね。
また刑法なんかないわけですから、ここまでやったらこの程度の罰とかはなくて、もしも罰が当たったとしてもそれが分かったかどうかは分からない事なんですよね。
彼の場合、母親の気持ちが遠ざかると言う、十分な罰に当たっていたと思うのですが。
だけどフツー、仏はそんな事はしないと思いますが、「罰」と言うものがあったとしたらの話ですよー。
それに(この物語の中では)、信長は相当理数系の人で、確かに文系の人ではないですね。
ああ、そう言えば、もうかなり昔の事ですが、なんだか歌集の講義を帰蝶から受けていたような気もします。(確かあったよね。)
だからその時なかったから、「ない」になってしまったのでしょう。
だけど「行動をする→罰」の「→」の長さを、何を持って測り、またいったい何回からの結果だと言うのでしょうか。
このセリフ、なんか私的にはかなり「変 !!」だったのですが、ところが私、妙に感心しちゃったんです。
今の信長の力、そしてこの先の信長の未来を示唆しているようで、そしてそれを染谷信長が、すこぶる説得力のあるような言い方をしたからです。
ああ、そうそう。
ここまで書いてなんですけれど、「そうじゃないよ。」と私に言いたくなってしまった方もいらっしゃると思うので、書いておきますと、子供の頃のエピソードなんかどうでも良くて、嫌な顔をしている光秀に、元々何にも石仏は石にしか見えない信長が敢えて言ったとも思えます。
ただ、「何もなかった。」と信長が言った時、テレビ前で多くの人が「本能寺の変」を脳裏に浮かべたのではないでしょうか。
首がないゆえに光秀が窮地に陥ってしまったわけですが、逆に考えれば、首さえも見つからないような死にざまで、その首は何処にって言ったら・・・・・
あー、昨日ね、「百鬼夜行抄」の新刊を読んだばかりなので、脳内がホラーチックになっている私。
彼岸の河原でその頭は転がって、鬼の子が「何もなかった」って、その頭をペチペチ叩く・・・・ !!!
うふふ・・・。←なぜに笑う・・・・。
だけど本当、あのペチペチで私の中の物語がみーんなぶっ飛んでしまったのです。「新しき幕府」は何処に !?
え~とえ~とと思い出すと、
永禄12年1月5日に信長の留守中に、三好三人衆が本圀寺を襲撃する→将軍のお住まいとして二条城を建てる。
松永の処分を信長の言うとおりにする代わりに、新幕府の政務を今までそれに従事していた摂津晴門に任せる事を認めてもらう。
以前の幕府を腐らせた者が、新幕府を任せたらダメよね。
そして私は、また「旧二条城」の事を考えてしまいました。
その場所から地下鉄工事で100体以上の石仏が発見されたとか。
『この石仏は伏見区、安楽寿院と、西京区、京都市洛西竹林公園に保管され、同時に発見された石垣の一部は、京都御苑下立売御門内と、現二条城内に復元されている。現地平安女学院前に石碑。地下鉄丸太町200メートル。』
(https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=8&tourism_id=892)
行ってはみたいけれど、石碑を見に行く事は、相当マニアック。友達は誘い辛いかもです(^_^;)