今、読んでいる本も「天と地の守り人」。
その本は1部から3部に分かれていて、図書館で借りていたのですが、ドラマが始まっても順調に借りられたのに、ここにきて3部だけ順番待ちになってしまいました。
で、原作の最後とは比較はできないのですが、ドラマの方は「闇の守り人」のお話も盛り込んであるので、時々混乱することがあり、ドラマはドラマと割り切って見た方が良いと思いました。「闇の守り人」は本当に面白い話なんですよ。バルサとジグロのカンバルでの物語の決着編なんです。それが本の方のシリーズでは、早くも「精霊の旅人」の後に続くんですよね。
そのエピソードを上手く使ってカンバルとの同盟に持って行ったのは良いアイデアでしたね。
このカンバル篇では、カグロ役の渡辺いっけいさん、良かったです!
このドラマは映画並みに迫力がありました。
そしてそのカンバル篇では、そうように映画みたいだと感じさせた一因に、ファンタジーにふさわしい摩訶不思議な雰囲気を醸し出す牧童トト役の米良美一さんの存在があったように思います。
カンバル篇のみではなく、キャストも贅沢でセットやロケにも力が入っていたように思います。新ヨゴ国の王宮の風景など本当に美しかったです。すべてに大河ファンタジーの名前にふさわしいものを感じました。
ただ一つ一つが起承転結で成り立っている物語を、組み入れ合わせた展開であっても畳みかけるような面白さのままであったかは、個人的な感想ですが疑問です。
が、タンダが戦場に駆り出され、タルシュと闘うシーンになって来たところから、もうとどまる事のない面白さを感じました。面白いと言っても、そこに感じたのは戦わされる恐怖。東出君が本当にもう力のないただの一人の男を演じていて、もう胸がいっぱいになりました。力のないただの一人って、それは私たちの事ですよね。あんな戦場では、勇敢に戦う事に何の意味を見いだせると言うのでしょうか。
そして最終回では、すべては二の妃に用心棒として雇われたところから始まったこの壮大な物語が、最後はこの二の妃からの感謝の言葉で終わるー。
バルサの「ただいま。」とタンダの「おかえり」。短槍はバルサの傍らではなく戸口に置かれてー。
全話ドラマ化と言いながら、トロガイの若き日が出てくる「夢の守り人」のエピソードは無くて、それでもなぜ美しい高島さんがこの役なのかと不思議に思っていましたが、最後に来てそれに意味を与えられましたね。
山の中にひとり置き去りにされたチャグムの弟を導いたのは、トロガイの魂。
トゥグムは「綺麗な女の人だったよ。」と言います。でも綺麗なトロガイでもトロガイっぽくて決して上品とかじゃないところが、高島さん、さすがだなと思いました。
最終回の感想だけでもてんこ盛り。
だってそれだけ最終回自体が素晴らしかったのですよね。
物語の感想は、また本を全部読み終わってからもう一度書く事があるかもしれません。
だからこの記事のこの先は、私はやっぱり帝の事を中心に書かせていただきたいと思います。
帝は重要な役どころながら、物語の流れ的にはそんなに登場はしてきません。原作では帝の「ミ」の字すら出てこない章もあります。ドラマの中で帝が出てくると嬉しくても、「意外と登場した。」と言う風に「意外と」と言う言葉を使いたくなりました。どちらかと言えば重要であっても脇役の様な印象が、私の中ではあったのでした。それでもきっと最終章では、なぜこの役に藤原竜也を持ってきたのか、絶対に意味が生じてくると信じていました。
やっぱりやっぱりでしたね。
最後の砦を死守せねばならなくなった時、帝は髪を振り乱して一身に祈り倒します。
あれを見て、彼は祈っていただけと思ってはいけないはずです。なぜならその祈りこそ、彼が神としての一番の仕事だからです。人が想いを込めて一身に祈ると、そこには念が生じ岩をも貫く力になると言うのは経験がある人には分かることですが、いわんや、彼はこの国の神の化身。
祈ることが彼の戦いなのです。
だけど一番のその祈りの力を、自分の力を信じていなかったのは帝自身だったかも知れません。
砦での勝利の報告に来た者に、
「砦が落ちたのか。」と真っ先に聞いてしまいます。
自分の力が信じられないと言う気持ちは、一の妃の皇子を助けられなかった時から、きっと彼の中に芽生えていたかも知れません。
常にあった葛藤。だけれど、神として生まれ神として生きて来た彼が、状況が変わって「ハイ人間」と言うわけにはいかなかったのだと思います。帝一人をドラマを通してみていれば、「ああ、ここは柔軟な気持ちになって逃げて欲しい。」と思うと思います。だけど彼はこの国の民にとっては、信仰の象徴であってやはり神なのです。
帝は寡黙で、自分の考えや気持ちを多弁には語らず分かり辛いのですが、彼は葛藤と苦悩の中で、新ヨゴの未来を見ていたと思うのです。
そしてシュガの星読みとしての謝罪の言葉をしっかりと聞いていたのです。
要約ですが、「人であるものを神として崇めさせ、代々の帝を苦しめ続けてきた。」
そう、帝一族がどうのこうのではないのですよね。導く者に間違いがあったのです。
水に飲まれた新ヨゴ国は、更に新生新ヨゴ国になる。人々は地に足をつけ人間の知恵と生きる力でこの国を再建して行こうとするでしょう。それゆえに自らを神のままで葬ったのかも知れません。神であった者が人になってしまっては、ずっと見ただけで目がつぶれるとさえ思っていた深い信仰の想いが揺らぎ、国を再建させなければならない時に、無駄な葛藤に苦しむことになると思います。全く描かれてはいませんが、ずっと神聖な神の国であった新ヨゴ国の人々にとって、帝の存在は大きな心の支えだったと思います。
自分の役割を貫き通すために、彼は王宮を去らなかったと私は思いました。
(かつて、日本と言う国で同じような事があったように思いますが、今はその時の人々の想いなど想像したくもありません。)
一緒に残ると言った二の妃を本当に愛おしいと言うまなざしで見つめ、
「このぬくもりに触れた時だけ、私は人であったかもしれない。」
「私が人であったならば、二の妃と逃げようと思っただろう。」と悲しい事を言うのでした。
ああ、逃げて欲しい。そして隠居して、二の妃と静かにお茶など飲んで暮らしていってもらいたい・…って言うのは、見ていた私の気持ちでしたが、もちろんそうなることはないわけです。(なんか翌日の薩摩で同じような事を言っていた人が^^;)
帝の運命は決まっていたのです。だって何回も予告編ハイライトのようなところで、そのシーンを見たから。だけどその予告編で見たあのナイフで刺されたシーンは聖導師の想像だったし、もしかしたらと最後まで希望的な未来を信じたい私でした。帝の気持ちは分かっていても、それでも助かって欲しいと思うのは人としての心情と言うものではないですか。
だけど、予告編で見せられていたシーンは、実はそんなものではなかったですね。
水に飲まれた帝。
その時彼が見たラストドリームは、無邪気に笑う子供の頃のチャグムとそれを優しい父親のまなざしで見つめる帝の姿だったのです。ああ。思い出しても泣ける(ノД`)・゜・。
はっと気が付くと、帝は水の中の王宮の中に立っています。そこにやって来る子供の頃のチャグム。近づいてくると、彼は青年のチャグムになり、その彼に帝は手を差し伸べてそして優しく抱きしめるのでした。
誰の物にも、自分の物にもなれなかった帝の心と魂は今ようやく自分の所に帰って来て、一番自分が望んでいたことを最後にすることが出来たのだと思います。
人の父としてただ子供を愛し、抱きしめるー。
ツイッターで「水の精霊の卵を守り切ったから恩返しだ」と言うツイートを見つけました。( ゆき@守り人最終回 @Gaju_san )同じく、私もそう思い共鳴いたしました。
ほんのわずかな時間を彼らがくれたのです。
帝は人としての幸せな想いの中で去り、(本当に救われた気持ちになりました。)
だけれど魂飛ばしから帰ってきたチャグムは
「父上は神になられた。」と言うのです。
原作、本当に凄いし面白いのですよ。
でも時に映像で作ったモノの中には、原作以上と言う作品が、またはシーンがあると思います。それは意外と多くはないと思うのです。だけどこの帝の最終回間近のあれやこれやのシーンはまさにそれで、やっぱり最終章では藤原竜也に帝と言うキャスティングがされた意味が見いだせたと思いました。
そして帝がシュガに最後に言った
「新ヨゴ国が、真に勝つ姿を見るがいい。」と言う言葉を、シュガが人々を導くチャグムの姿を見て思い出すシーンも、本当に良かったです。
と言うわけで、終わってしまいました。。。。。。
寂しいですが、それでもこの素晴らしい作品に携わった皆様に「ありがとう」と言いたいと思った私です。
(この物語は、カンバル篇でもジグロとバルサ、ログサムとラダールなど親子が向き合う物語なのだと言われていました。そしてまた兄弟たちの物語でもありました。カグロとジグロのエピソードも良かったですね。)