皆さま大掃除などの年末の御用は進んでいますか。
大河の感想を書くことは長年の習慣で、私にはヤルべきことの一つのような気もするので、諸々の合間に書かせていただきました。遅くなってしまいましたが、これを書くとひとつ終わったという感じがします。
※ ※ ※
このドラマの感想を書こうとするならば、やはり視聴率のことを避けて通ってはいけないような気がするのです。最終回の視聴率が一桁・・・・・。
このことについては、私も思うことが若干あります。いつもなら、視聴率と作品のクオリティは関係ないし良作は良作だと言い切るところですが、この作品に関しては、少々微妙に思うこともあるのですね。でも、それをつらつらと書いていると、本編感想に辿り着けないので、今回はそれに関しては棚の上に上げておいて、後でゆっくり棚から降ろしてしげしげと眺めながら考えてみたいと思います。
視聴率の数字を思うと私は大河「平清盛」を毎回楽しみに見ていた少数派と言えるかも知れません。かなり楽しみに待ち、見ていました。
この作品がどのように流れていくか否かより、もとより私は平家・源氏の物語には心惹かれてそれもテーマにブログの記事を書いていたものですから、最初から見続けると言うのは自分の中の約束事のようなものだったように思います。ゆえに最初からこの作品を見る私の目は、違った意味で曇っていたのかも知れません。目が曇っているというと、良い意味には取れないと思うのですが、どんな展開が来てもこのドラマを悪く見ることが出来なかったと言う意味と取っていただければと思います。
「平家物語」の冒頭は、私が子供の時から中学国語の時間で暗記せねばならないと言う授業があったはずで、ほとんどの大人が知っているという、なんて言うか凄いお話なのですよね。
その冒頭文。
「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、 ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。」
凄いですよね。この冒頭文。特に一行目、読むと頭の中に「カ~ン」と高く澄んだ、だけど切ないような音が頭の中に響きませんか。琵琶法師によって伝えられたこの「平家物語」ですが、誰が一番初めにこの文を綴ったというのでしょうか。その人はこんなにも長き時代を経ても人々に伝えられていると、その時思うことが出来たでしょうか。
ドラマ「平清盛」では「武士の世」という言葉を連発し、時代の画期的変換をなそうとした、いや、なした男の物語で、「平家物語」の冒頭に漂うような無常観は、そうそうはなかったと思います。ゆえにこの冒頭文は最終回でかつて平家の禿だった女の口から語られるという演出がされていました。こんなに早くからあったのかという違和感が若干したものの、サービスだったのかなと良く解釈しました。
だけど無常観はなくてもその根底には「遊びをせんとて生まれけん」という、仏教的思想が流れていたと思います。この歌は今様じゃないのかと反論されそうですが、私は「衆生所遊楽」という経文の言葉から、この歌が来ているのだとごく自然に解釈しました。ただ、宗教に関わることなので、それはどういうことなのかと書いて、解釈に誤ちがあるととんでもない不敬になるので、詳しくは書けませんが、中の解釈を省いて書くと「夢中で生きる」となるわけで、清盛の生きた道を思うと納得ができるものがあったのでした。
死ぬのかと生霊になった清盛がたじろぐと、西行がこの歌を用いて諭すシーンは、やっぱり死者に引導を渡すのは僧侶の仕事なんだなと微妙なところでも納得してしまったのでした。
でももちろん、それは私の自然に感じた解釈で、NHKのHPの「よくある質問」によれば
「詞は「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ ゆるがるれ」です。
意味についてはいくつかの解釈がありますが、このドラマでは「子どもが遊ぶときは、時の経つのも忘れて、夢中になる。子どもが遊ぶみたいに、夢中で生きたい」という意味で歌っております。 」
あややっ、同じでしたね・・・。要するに最終的な部分は同じで「夢中で生きる」がこのドラマのテーマだったんですよね。
登る坂道下る坂道、とにかく人生の道を一身に進んだ清盛。
このドラマの底辺に流れるテーマに共鳴して、ずっと彼を見続けてきたわけです。
だけれどどうも正直な感想を言うと、あるがままの清盛を愛し続けてきたかという訳にはいかない展開だったと思います。特に晩年の彼の行動には、なにか理由があるのかと期待してみたけれど、何のことはなく、ただの傲慢と真の父親譲りの残酷な性格であったのだと思うばかりで感情移入がしにくいエピソードが多かったと思いました。
それでも先に書いた通り、どうしても悪く見ることが出来なかったのは、役者さんたちの素晴らしい演技合戦に心酔していたからに他ならなかったからかも知れません。どの人がというのでなく本当にどの人もその演技は輝いていました。ただ確かに、これはみなさんもおっしゃっていたことですが、頼朝の頼りなさげは、全く新しい解釈で驚かされました。しかもこのライターさんは頼朝を描く時に「今日が明日でも明日が今日でも変わらない毎日」というような内容のセリフを毎回言わせて、よほど気に入っていたのだなと思いますが、1回目は素敵に感じても繰り返されるのはいかがなものかと思ってしまったのでした。なんとなく彼が出てくると、伊坂幸太郎の時代劇(そんなものなどないが)のような気がして仕方がありませんでした。
頼朝には源氏の御曹司という名前のみのカリスマ性しか無く、これじゃ陰で東国武士に虎視眈々とやられちゃうよなと、妙な説得力が出て、それはそれで良かったような気もしたのでした(なんでも良く解釈)
ところでこのドラマはメイクが凄かったですね。特に晩年の清盛の老人メイク。何たる醜悪。
若き日の浅くて薄っぺら感が漂っていながら、それでいて清々しい真っ直ぐな清盛は何処に行ってしまったのかという感じです。
老いると言うのは、なんと悲しいことかと思わず思ってしまったほどです。見た目が醜いからではなく、彼の清さは失われ傲慢であることが全面に出ていたからです。 松ケン、凄いっていつも思っていました。
と、思わず役者さんの名前を出すと、あれやこれやとたっくさん書きたくなってしまうのですが・・・・・
このように気に入って毎回見ていたものは、初回と最終回に書くということはムリなことなんだとしみじみと思いました。
なぜなら書き出すとあのシーンこのシーンと好きだったシーンが沢山思い出されるからです。やっぱりこのドラマ、面白かったですよ。ああ、なんで視聴率が悪かったんだろう・・・って、nhkの人も思ってるだろうなあ、今頃。今、もう次のことしか考えていないのかな。
最後に最終回のみの感想を少々。
ドラマタイトルが「平清盛」なので死んだ後はどうするんだろうと思っていたら、やってくれましたね。ぎゅうぎゅうとだけどかなり纏まっていましたよ。
西行が清盛の遺言を持ってくるシーン。伊達に生霊にはならずあの後も西行に伝言を頼んでいたのかと感心しました。西行はそれをふむふむとメモにでも取っていて、みんなでそれを読むのかと思いきや、なんと西行の体を借りて清盛降臨。
もうなんでもやっちゃって下さい。
最終回なんだから。
でも意外と良いシーンでしたよ。なんたって私はこの一族の団結力が好きだったのですから。
清盛亡き後の後日譚は無常感漂いまくりでした。
栄華繁栄を誇ったのに、それは皆懐かしき過去。
初回感想にもリンクさせていただきましたが
「泣けと言われたら泣けるのか」 という記事で、私が壇ノ浦のシーンで泣かないわけないよなと思っていたら、やっぱりハラハラと泣いてしまいました。
後日譚なんだから、ページをパラパラ捲るような感じでしたが、今思うと、一ノ谷とか壇ノ浦とか諸々、普通視聴率を稼げる場面がここには登場することが出来なかった訳で、企画の段階で早々厳しいものがあるって分かっていたんじゃないのかなと、普通なら思うよねって、ちょっと心の声・・・。
貴族の世から武士の世への転換を果たした男清盛。だけどそれは個人に与えられた使命であり平家のものではなかったのかも知れません。歴史の必然は、ゆえに平家を排除した。だけどそれは源氏にも言えたことであって、平家を倒した源氏は結局は弟を殺し、そして三代続いたといっても、長男から次男へという横の相続で、しかも二人ともろくな死に方ではなく、とても続いたといえるものかは疑問です。
歴史の必然が選んだのは、地方の一武士の家系北条だったのですから。
彼らは平家も源氏も歴史の中の通過点でしかなかったのかも知れません。だけど絶対に必要なポイントであったことだけは確かです。
彼らは一心に生き歴史を作っていったのですよね。
最後の最後ですが、弁慶、凄い。流石に私の後藤様。すなわち青木様。たったあれだけのシーンなのに全力投球。すごく印象に残りました。私はあまり彼のことをチェック入れたりしていないんです。だけど観たドラマや映画に彼が出てくるとテンションが上ります。大好きです。青木崇高さん。
あっ、最後の最後ではありませんでした。今度はほんとうに最後の最後の最後です。
ラストシーン、良かったですねえ。
水の底の都。
共に生きた平家の面々が一堂に会して清盛を迎えます。
ジーンとしました。
でもここでも私、ちょっと思ってしまったことが・・・。
先の妻、明子はここにはいないのかとか、時忠はしぶとく生き抜いてまだここにはいないんじゃないのかとか・・・
まっ、いいか、そこは。
そして夢の塊だった若き日のつやつやな若さの清盛の姿で終わったのでした。
※ ※ ※
「平清盛」1回目の感想は→こちら
>ご夫婦で観ていて、どちらか1人が脱落した
なかなか深いご明察。うちは夫は脱落組でした。
ところが、八重の桜は八重さんのことや新島襄のことも調べちゃったりして・・・
やっぱり、スカッと出来そうな物語に期待したいのかもしれませんね。
『八重の桜』はよかったですね!
期待値まんまが視聴率にも反映されたよで。
今年は、無秩序・混沌よりはおよそ700年分の安定の上にある武家、いや封建社会、に出来上がってる安定感がありますの。役者見物は今年も楽しみだ~。
清盛は、何しろ遊んでくれましたが、いや作り手は真面目にとことん遊ばれたのでしょが。遊びにキーっとなる方がいるのも宜なるかな。けんど、「革新」といわれるのは主に表現手法で、私見では、主人公の光と影、さらには闇をさっくと描く、原点回帰の王道大河でもありました。
因みに、↑の、清盛の前から消えた1人。ご夫婦で観ていて、どちらか1人が脱落した。てのがイメージし易かったす。ほか、途中で忙しなくチャンネル変える人やら。
我が家では4/4人で100%なんすけどの。但し自分は1人でじっくり観てました。
いづれ、家族や夫婦でのんびり観られる作品でもなかったでひょかね。これ、今年と大きくちゃうとこか。
と。甘いの辛いのアゲヤダサゲヤダゆうて、やっぱ、史実といえども虚構の世界の主人公は、かっちょいいヒーローが観たいんだべなあ、で出来る男や女の一生見てスカッとしたい、とか。清盛、莫迦だったし。
その類が好みの方は、お次の信長竜馬が出てくるまで待っててくんろ。ス。
非公開って書いてあったのに公開しちゃってすみません。と言って引っ込める内容ではなかったので、そのまま。加えてすみません〈笑〉←謝りながら笑ってるという不貞の輩です。
視聴率の考察やリンクの再掲、ありがとうございます。「平清盛」の視聴率については、私もちょっと記事を書いてからと思っていたのですが、なんたって日常に追われているものですから、近頃深く考えてからしっかり文章を書くということが出来なくなってきているかも知れません。
ちなみに私も時忠、私もすごく好きでした。人間臭く、そしてシブトイ。とっても良かったです。壇ノ浦で剣を姉に託したのは、それで姉が助かるかもと言う思惑があったなど、全く思いもよりませんでした。でも時忠だったらありえますよね。
なんだかジーンとしました。
書いて下さったコメントの内容も、もっと熟読したいと思います。
今日はこれから年明け大掃除の一日目なので・・・ちょっぴり頑張ります、私(笑)
>「平清盛なくして武士の世はなかった」て。
そうそう、ここがビシッと自分の気持にハマったんですよ、このドラマ。初回感想にも書いたような気がしますが、始まる前に夫と話していたことを、このドラマが語り出した時には、期待感が高まりました。
本当にクオリティの高い作品でしたね。私は心の底からそう思います。
リンクして下さったアドレスになぜか行けません。また後で再チャレンジしてみますね。
もとい、清盛からちょい自分も傾向などを眺めてみました。これは非公開で。
今作平均はざっくり10%としちゃって、おおよそ10人に1人が観ていたとする。それでもいいんじゃないのか、とは思うんすが、なんたって大河ブランドの凋落か?辺りが噂のマトなんでひょかね。
昨今、えねっちけー日曜夜8時のTV前に生で何人居るか?てと、直近前作『坂の上の雲』3部の最終回は清盛と同じくらい。その前『江』最終回は1.9、終盤は1.5~1.8くらいか。その前『龍馬伝』も終盤はこんな感じ。
すると~雲・3部最終回現在、日常週間的にこの枠のTV前に居た人は1人以上2人未満だった。
週間的な生の視聴者はそのまま推移して、清盛初回も1以上2人未満。
また、週間的にTVを観ていると行ってよい大河終盤・視聴者は数年来ほとんど1人以上2人未満。
そんな中、限りなく1人に近づいたのが清盛。
一方で、大河の初回(最終回)は初回の期待値が入る傾向もあるとみて、この流動的平均を20%とすると、清盛初回は、2人から1人未満、がTV前からまず消えていた。
初回の期待値が、習慣行動を越えなかった。
題材でつかみそこねた、と言われるとこでしょか。
そこから限りなく1人に近い方が消えて行った。
この消えた1人はどんな層でひょかね。
※ 異常に取り沙汰された傾向はここいらですよね。これを深めるたら何か結論が出ればよいけど、文字ばっか増えちゃいますし、暴動がおきちゃいそですね。実際、リアルに執拗な嫌がらせを受け、洒落にならん被害を被ったブロガーさんも居たんですよね。犯罪と言ってもよい妨害工作でした。
駄作という人もいれば、傑作・名作という人もいる場合、奇作・鬼作とでもいえばいいのかな。表裏一体のコインのような、とっても立体感のある曼荼羅のような作品でした。
と。清盛ではじめて大河を通して観たという方が居たり、若年層の視聴率が増えたりしたとか。
視聴者内訳は、根強い大河・時代劇ファンと、数年来の目標でもあったらしい若年層の新規開拓、が出来た方あたりとしまひょか。
また昨今は試行錯誤の連続と見受けられ、新規開拓の成果は、このチャレンジに依るところ大。
再び最終回イベント時、忠正叔父:豊原さんのコメント「この大河は~革新だった~」から、革新、チャレンジ内容に興味を持たれた方々も居たとも取れる。
新規開拓の成果も見え始めたらしい今、方針として残したい傾向も固まりつつあるでしょし、次の『八重の桜』の仕上がりは、大河凋落?の歯止めとなるか、注目ですね。
本年も引き続き、どぞ、よろしくです。
『相棒』元旦スペシャルも終わって、シーズン11に早く触れたいんすが、去年の宿題残したような気分にて、まずはこちらを。
個人的には、久しぶりに終わった後、もう無いのが詰まらなくなった大河でした。
>このドラマの底辺に流れるテーマに共鳴して、ずっと彼(彼ら)を見続けてきた、
はい。この物語を見続けかつ愛しんだ方というのはまさに。
底辺のテーマ諸々を、思い込みでも何でもキャッチ出来なかった方はオモロなかったでひょなあ。
底辺テーマは仰る通り「夢中に生きる」だしその冒頭文に集約されていて。でこの冒頭文、事がすべて終わった後の、ちょー第三者か源氏方が語り部達でしょうか、その呟き、語りで、実際に生きていた彼らは生き残るために夢中だったし、嬉嬉として戦に向かい武勲を誇った。
んで本文進行中の無常観はあんまり無くて明るい。というか自分はそう読んでいて、そんな『平家物語』を新たな語り部が語った今作、平成の『平家物語』。個人的には原文の人物達や物語の構造をよく踏んでいたなあと感じてます。とはいえ原文も、今の内容に収まるまでには随分と変化したでひょが。
そして今作では源氏方の語り部はずばり、源頼朝に語らせた。でこのとき、平家の悪口並べ連ねても醜悪なだけで、作り手は語る意義を想像したらまたずばり、武士武家、という言葉で繋がることを再認識?したのか、「平清盛なくして武士の世はなかった」て。
これ、ここ数年巷で指摘されていた単純な主人公アゲとはわけちゃう。作り手が原典に向き合って改めて獲得した歴史上の事実。と考えただけでとんでもなく愉しい。
この作品の人物達が動いて発生した殿下乗合事件も大収穫でした。そんで、夢中に生きたある為政者の、等身大の姿がまじ愛おしかったです。
最終回某イベント時にて。平家末裔の方のコメントが染み入りました。長くなりましたが記念に。ご存知なら失敬。ttp://www.nhk.or.jp/drama-blog/99480/142007.html