森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

あれから10年

2021-03-12 01:29:30 | 梢は歌う(日記)

こんばんは。

私は猫のももです。

私は2011年の5月にママの家にやってきました。

「こんな時に、新しい家族を迎えるのはどうなんだろうか。」と、ちょっとだけママもパパも考えたみたいですが、それでも時期を選ばず私はkiriyの家の住人になりました。

私が来るときも、大きな余震があって、ホームセンターの天井が鐘を鳴らすような音を立てて揺れ、ママはパパの横で震えていたのでした。

 

2011年の大きな地震から10年が経ちました。

皆様の10年はいかがでしたでしょうか。

私は2020年の8月に10歳を迎える事が出来ました。

だけど同じ年の12月10日に、私は猫の楽園の住人になりました。

たった10年さえ、ママの家にいる事は叶わなかったのです。

立てなくなった私に、

「ももちゃん !

2021年はきっと良い年になるよ。だから一緒に新しい年を見ようよ。」と、ママは泣きながら私に言いました。

だけど苦しむ私に、最後は口をつぐんだのです。

 

ママはある時、私とあんずの為に大きなキャリーバッグを二つ買いました。それは肩から下げる事も出来るものでした。なぜ大きなものを買ったかと言うと、その頃の私は、ちょっとおデブな猫だったからです。ママはそれを買うと、かなりホッとした顔をしました。

この地域で猫さえ連れての避難となれば、かなりの大きさの災害です。いざという時にはどうなるか分からない事ですが、それでもその逃げる手段の物がある事は大事な事だと、ママは言いました。2011年という年に、私を迎えたママの心の中には、ずっとその事が「気になる案件」としてあったのでした。

だけどそのキャリーバッグは、あっという間に小さくなってしまった私の、病院通いのために使われたのでした。

ところで私は2015年3月11日に「2011年を生きた猫たちへ」

と言う記事でも、お話を聞いていただきました。

それはkiriyのおうちの2011年から2015年の4年間の小さな「わが家の歴史」みたいにもなっていて、ママは時々読み返すみたいです。だけど必ず約束のように泣くのです。それは、その記事に生き延びたのにゲンパツのせいで、家族と引き離されてしまった猫と犬の話が載っているからです。

その記事の中でママは言いました。

>あの時、命絶たれてしまった者の無念さはいかばかりか知る術もない事ですが、残された者たちにはそれぞれの4年間がありました。

あの時と言う点があり、そこから今と言う点に線でつなぎ、その線を覚えていくのだとママが言います。

「ママ !!

その線を覚えていますか ?」

 

こんばんは。

私は猫のももです。

2010年に生まれて2011年にこの家にやってきました。

そして2020年にこの家から去り、今では「猫の楽園」の住人です。

だけどママ、私はその線の中に確かにいましたよ。

パパにもママにも、ルートお兄ちゃんにも、「支えてくれてありがとう。」と感謝されながら、確かにそこにいたのです。

 

☆    ☆    ☆

大丈夫だよ!!

ももちゃん。

ありがとう。

ママは忘れないからね。

あの日の事も、あの日からの事も。

そしてももちゃんも。

 


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