(北法相宗音羽山清水寺 京都市東山区清水 世界文化遺産 国宝 重要文化財)
京都で修学旅行といえば、先ず清水寺というほどの寺院である。私もこの寺に初めて訪れたのは、小学校の修学旅行であった。
(重文 仁王門 室町) (重文 西門 寛永八年) (国宝 本堂 寛永十年)
清水寺は宝亀九年(778)興福寺の僧賢心が夢告により音羽山を訪れ、そこで千手観音を念じ滝行をする行叡に出会い、霊木を授けて行叡は去っていった。賢心は行叡が千手観音の化身と悟り、霊木で千手観音を彫り庵を結んだ。翌々年、鹿を捕まえるためこの地に訪れた坂上田村麻呂は賢心と出会った。田村麻呂は病気の妻の薬を得るため、鹿の生き血を求めて来たが、賢心に殺生を諭され観音に帰依し、妻の容体は安定した。田村麻呂は観音を祀る堂宇を寄進し、後に蝦夷征討の功により征夷大将軍になった田村麻呂は、観音の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天、それらを祀る本堂を造営した。
京都で修学旅行といえば、先ず清水寺というほどの寺院である。私もこの寺に初めて訪れたのは、小学校の修学旅行であった。
(重文 仁王門 室町) (重文 西門 寛永八年) (国宝 本堂 寛永十年)
清水寺は宝亀九年(778)興福寺の僧賢心が夢告により音羽山を訪れ、そこで千手観音を念じ滝行をする行叡に出会い、霊木を授けて行叡は去っていった。賢心は行叡が千手観音の化身と悟り、霊木で千手観音を彫り庵を結んだ。翌々年、鹿を捕まえるためこの地に訪れた坂上田村麻呂は賢心と出会った。田村麻呂は病気の妻の薬を得るため、鹿の生き血を求めて来たが、賢心に殺生を諭され観音に帰依し、妻の容体は安定した。田村麻呂は観音を祀る堂宇を寄進し、後に蝦夷征討の功により征夷大将軍になった田村麻呂は、観音の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天、それらを祀る本堂を造営した。