しづかに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
人静まりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足とりしたため、残しおかじと思ふ反古(ほうご)など破(や)りすつる中に、亡き人の手ならひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折りの心地すれ。この此(ごろ)ある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、哀(あはれ)なるぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変らず久しき、いと悲し。
=徒然草 第二十九段=
亡き人が常に用い慣れていた道具なども、無心で、いつまでも変わらないであるのを見ると、悲しく心打たれることだ。残されたものを通じて人を偲ぶ。
私はといへば、朝夕、親が仏壇に手を合わす環境に育ったが、無宗教に近い日々であった。
今、世の常ならぬことを目の当たりにして過ごすことも多い環境にあって、少しづつではあるが、いつとはなしに、生活の根深いところで、心のありようを支配してきているのを感じる無常観。
宗教心としての実感ではない。ただ、心の中にしみていく、体の中を血のように流れている…、そんな溶け込みようとして。
今月末、母の命日を迎える。
愛する大切なお母様を見送られたばかりの方もいらっしゃるだろう。
「おかあさん」、子どもたちが私を呼ぶ声はいつも懐かしくときに新鮮だ。
そして、「おかあさん」「かあさん」「母」、どのような言い方にしろ、いつまでも口にして呼びかけていたい言葉の一つでもある。
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」…
人生の終わり、死は避けようもない。
その死と結びついて無常感は私たちの心を揺すり続けていくのだろう。
人静まりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足とりしたため、残しおかじと思ふ反古(ほうご)など破(や)りすつる中に、亡き人の手ならひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折りの心地すれ。この此(ごろ)ある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、哀(あはれ)なるぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変らず久しき、いと悲し。
=徒然草 第二十九段=
亡き人が常に用い慣れていた道具なども、無心で、いつまでも変わらないであるのを見ると、悲しく心打たれることだ。残されたものを通じて人を偲ぶ。
私はといへば、朝夕、親が仏壇に手を合わす環境に育ったが、無宗教に近い日々であった。
今、世の常ならぬことを目の当たりにして過ごすことも多い環境にあって、少しづつではあるが、いつとはなしに、生活の根深いところで、心のありようを支配してきているのを感じる無常観。
宗教心としての実感ではない。ただ、心の中にしみていく、体の中を血のように流れている…、そんな溶け込みようとして。
今月末、母の命日を迎える。
愛する大切なお母様を見送られたばかりの方もいらっしゃるだろう。
「おかあさん」、子どもたちが私を呼ぶ声はいつも懐かしくときに新鮮だ。
そして、「おかあさん」「かあさん」「母」、どのような言い方にしろ、いつまでも口にして呼びかけていたい言葉の一つでもある。
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」…
人生の終わり、死は避けようもない。
その死と結びついて無常感は私たちの心を揺すり続けていくのだろう。