goo blog サービス終了のお知らせ 

京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

思わぬものが

2018年01月08日 | 日々の暮らしの中で
一日中降り続いた雨。来客もなく、外出する気もなくて、時間はたっぷりの一日でした。
ため込んでいた資料から(中には10年ほど前のものもあって)取り置くものとそうでないものとを選別し、処分しておこうと始めました。何度かのふるいにかけてあるので、今回は少し思い切りました。身がスリムになった気がするほどです。


弟26歳のときの手紙が出てきました。もちろん選別対象のものとは別で。
A4用紙に5枚。「誕生日のプレゼントありがとう」と書き出されていて、「考えてみれば、姉さんに手紙を出すというのは初めての試みだよね」とある。「『専門は経済です』と言えるほどのキャリアはなく、軟派の取材記事でもやらざるを得なくて困りもんですよ」「自分は極めて健全で健康的な考え方と生き方をしているつもりなんだが、世の人に言わせると、僕のような人種を『怠け者』と呼ぶらしい」と。

「どうせ時節を踏み迷って咲くならば、我ら遊狂の花たらん」と友人Mが賀状に認めてきた言葉を引いて、「徒花でも咲かせてみようか」、などともある。学生運動に走り、ゲバ棒をペンに持ち替えた弟の思いが滲む。26歳にしてこんなことを考えていたのか…。封は開いているのに、内容の記憶は消えていました。

「姉さんも暇なようですね」「親鸞という人は素晴らしい人ですよ」「ここに唯一の悲しみを提げた人間がいるということはわかる。そして、何故、彼が仏家たらんと生きてしまったのか、その人生的苦悶ー壮絶なまでの悲しみの極みを感じることはできる」。なんてあって、ギョッとした。
そして、「歎異抄」でも読めば、と勧め、いい手引きがあるよと紹介しているのが『最後の親鸞』(吉本隆明著 春秋社刊)だった。
私と3つ違いの弟の言うこと。姉弟、まあ何という違いだったろう。驚くやら感心するやら。

以後、一度もこうした内容で話をすることはなかった。3人の娘を遺し55歳で逝った。



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする