
「出町柳に小さいけど映画館ができたみたいですね。行ってみたいです。keiさん、行かない!?」と友人から打診され、「行きたくないわ」とは返事できなくって、今日という日を選んで出町座に初デビューと相成りました。京阪電車の、また叡山電鉄の始発駅となる出町柳駅から歩いて10分もかからない、商店街の一角にある2スクリーンで100席余の映画館です。結果は、断らなくてよかった。

「行かない?」と言われてもなにを上映しているのかから調べて、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見ることにしました。「見損なったからぜひ見たい」という友人ですが、私は全く知らずにいた作品です。「去年、『ラ・ラ・ランド』とアカデミー賞を競った作品で、主役の〇〇〇が主演男優賞を獲得していて、実生活でも…」云々、と次々繰り出される長い説明を半分は聞いていて、「あら、そうなん」とそっけない返事をしていた私だったのですが…。
人間再生への容易ならぬプロセスが描かれているのか。心の深いところを揺すぶられながら、自分のこれまでを顧みたり、近しい人の姿に重ねてみたりして考えさせられました。つらい過去の体験、傷つき傷つけあってきた心、人間関係。一切を内に抱え込み、なかなか乗り越えることができない主人公リーは手が早く、暴力的です。静かに、じーっとリーの心に寄り添うように見入って、ただ沈潜、の感でした。
変身、再生するにはそれぞれにプロセスがあって、一朝一夕にはいかない。そこに悲しさを覚えましたが、やはり相応の時間を要するものなのだろうと思いました。リーの再生までの過程には、それをじっと見守る根気が必要なのだと今更のように思った映画でした。
「コミュニケーション」とは本来「分け合う」という意味を持つ、と。以前、「シェア」ということを少し考えた時期があって、知ったことだったのですが、心が他者に向かって開かれて初めて共有するものが生まれてくるのでしょう。

私は私だけの興味や関心の世界を持っていて、それによって多分に情報を選別しています。その枠を超えたところからの働きかけを受けとめた時、思いがけずも個人の世界など狭いもんだなと気付かせてくれます。そんな刺激を与えてくれるこの友には、ーちょっと解説が多いんだけどーなどといった思いは内に秘めて、ありがたく感謝するのです。
うらうらかな、という言葉がぴったりの陽気でした。賀茂川沿いの半木(なからぎ)の道を歩いて。