
嫁いで家に収まり、よそさんとのお付き合いをしていく中で、「おため」「おため返し」の言葉や習慣が初めて自分の日常についてきた。後年、名残りの心なんてことに思いを致すようになったのも、ここに端を発してるのだと思う。余裕ができて、やさしく書かれた仏教書などを手にするようになって、残心とか余情残心の言葉を知ることになった。
いつだったか今まだ辿れていないが、多くの場で話をされ、たくさんの方の心を癒し、ご自身研鑽や体験を積まれ思考を重ねられておいでの仏教者が、かつて「残心余情」という言葉でお話くださった日があった。
長い年月を経ても、信心とか阿弥陀様が…と話題にするどころか口にもできないでいるのに、知り得た言葉に安易に乗ってまとめてしまおうとしたかのような浅はかさ。しかも余情残心が「残心余情」にすり替わって…。心に、頭にすっと浮かんだのは、一度うかがったこちらの言葉だったのに、何のためらいもなく…。
本を読んでも、自分の身に引き寄せて考えなくてはただの知識どまりだということ、重く考え込んだ5001日目の晩でした。ご指摘がなかったら気づかぬままに通り過ぎるところでした。


「人生は自分の後方でなく、前方に全部未開発で残っている」と伊藤整氏。今までずっと身辺に添えてき来た〈名残を惜しみ、余韻をとどめつつ〉の思いを大切に、綴っていきたい。
(ひと足ずつ上を目指す、4歳児のロッククライミング)