この写真は、主人公ヨヘスケルが、尊厳死を願う同じ老人ホームで暮らす仲間のために、安楽死できる装置を作っているところです(イスラエルの映画)。
逡巡しながらも、願いをかなえる形で支えるホームの仲間の5人。ヨヘスケルは妻が認知症を患っていた。「殺人」行為だと夫を避難していた妻も、自身の病の症状が悪化するにつれ、「自分が壊れてなくなってしまう前に」と尊厳死を選ぶ。夫と最後の小さなキスをして…。
身体を動かすこともできずに床ずれだらけ、生きていることが辛いからと死を願う老人に、医療は何もしてくれない。
殺人罪が適用される出来事にも、うわさが流れるだけで終わる。映画はコミカルな要素も多く含めて描いて見せている。
最期を迎える母に寄り添っていたとき、父は浅草寺に願解きに行ってくるといい残して、病院から急ぎ一人で向かった。回復を願ってお参りしていたから、もう楽にさせてあげたいという思いからだったろう。父の胸の内を思いながら、あふれるものはこらえていた。
大事な人を苦しめたくない、見ているのもつらい、万国変わらぬ人としての心情だろう。
尊厳死は自らの人生を閉じる上で幸せな終わりかたなのでしょうか。自分の最後をどう締めくくるのか。存命中からの意思表示が話題にはなるが…。
私は死がこわい、かな…。そういう心持が根っこにあるのを感じている…。
未来はこれから。こんな年頃の笑顔にせめて気持ちを慰めて…。
厳粛なテーマですので面白おかしくとはいきませんが、
笑いで包みながら重いテーマと向き合わせてくれるようです。
命の尊厳。痴ほう症の症状が出始めて、自分が壊れていく前に、と死を選ぶこと、意識のないままに、…いろいろ考えさせられる映画になりました。
尊厳死という重い題材を、コミカルに描いて
あるのですか?
つい最近、ココアで「安楽死」のことを
考えたばかりです。出来ませんでした。
難しい問題ですね。
むろん、テーマは命の尊厳に向き合うものですから、重いと言えますし、厳粛なものです。
避けようのない現実がやがて平等に訪れるわけですが、
どこか直視していない私には考えるきっかけを与えてくれます。
母の頃には尊厳死ということばにも心を止めることなく過ぎてしまっていました。
静かに息を引き取る姿を見守れて良かったのだと思っています。
最期をどう結ぶか、考えさせられます。
夫婦で会員になりました。
今は私一人会員です。
夫が在るときは深刻ではなく、考えもせず、
会報が送られてきても、ペラペラめくる程度の不熱心さでした。
一人になりこの年齢になった今こそ直面させられています。
超党派で尊厳死協会応援しているそうですが、
肝心の医師には賛成が少ないのようです。
いつ何があるかはわからないわけですが…。
どのような境遇、条件で最期をのときを迎えるかは本当に千差万別ですね。
計画通りなんてわけにもいかず、他人が善し悪しを論ずることもできず。
いろいろな思いを抱えて人は生きているものですよね。考えさせられました。
ありがとうございます。
重いテーマの映画ですね。コミカルな要素も含まれているのが救いでしょうか?
人の命はそれぞれの環境、立場、「その一瞬」が有るので語る事は難しいですね。
私は自分の死を息子たちに決めさせたくは有りません。
そんな意味も有り、数年前に「「日本尊厳死協会」に登録しました。
あと数年で傘寿を迎えます。死の恐怖は漠然と有ります。経験のない事は全て同じ思いです。
夫を見送ったら、全てを捨てるつもりで今は懸命に生きています。話がそれたかも・・・ごめんなさい。