雪散華 杉本健吉
寒気が身にしみる薄暗がりの中に、お仏飯の湯気が立ちあがります。
ぴたぴたとした音が耳に入って、どうやら雪がふっているらしい気配。大きな白いものが、みぞれのような水っぽさで暗い空から落ちてくる音でした。
草木国土、生き仏さん含めたあらゆる諸仏を、雪の花(華)で供養するかのような「雪散華」。何度口にしても美しい響きの「雪散華」。もうちょっと降ってくれたら。
おりんを鳴らし、さっと手を合わせ、長居は無用とばかりに早く引き上げたいですわ。
今日は大寒。寒さのどん詰まりの日。ということはこの先の寒さはなくって、立春にむかい春を待つ日々に…、なればいいんですけどね。
こんなに寒い日は、春を待ちつつ力を貯える。ありがたいことに「いつだって読書日和」の私です。
『荒仏師 運慶』(梓澤要)を読み進めた。平重盛による南都焼き討ちの描写、諸堂のお像を運び出さんと力を合わすさまが、一人称「わたし」の目線で物語られます。この南都焼打ち場面は、澤田瞳子さんの『龍華記』と重なるので一寸読み比べてみたりして。
ところで、例えば桜庭一樹、有川浩、梓澤要さん。このお名前は、一見したところ男性の名前に思えてしまう。「男性かと思った」と、先入観で口にすることは今やまずいのかしら。
戦中当時特攻隊員が若くして敵艦体当たりして
亡くなると散華した・・・とあがめられていました。
美化した表現に国民は納得できない気持ちを
納得させていたのかもしれません。
太宰治の小説にも同名の作品がありました。
桜庭一樹、有川浩、梓澤要さん>みな男性?
桜庭さんだけは知っていましたが、他のお二人は知りませんでした。
女性の友人に茂さんがいます。
学校時代からず~っと男の子と思われて
何かにつけ不都合不便があつたようです。
散華はお寺での法要でいただくことがあったくらいですが、
散った若い命を「散華」と美化するようなことは今後絶対にあってはなりませんね。
太宰作品、青空文庫で読んでみます。
本名ですと間違えられることは多くあったでしょう。「しげ」さんでしょうか。
今では書かれた名前だけでは男女わからないことも多いですね。
そちらでは、雪が・・・とニュースで知りました。
昔々、私が良く京都を旅していた頃は、結構、雪の日が多かったような記憶があるのですが、記憶相違の産物でしょうかね。
東京・上野の桜並木を、友人と談笑しながら鑑賞していた時、友人の友人(私は未知)の遭遇したんですね。
友人は、その方と暫く話をしてから別れましたが、その後、友人曰く・・・あの人(私ですが)あなたのご主人?と訊ねたのだそうです。
ほぼ全身黒ずくめで化粧っけなし、更に、ショートカットの私を、果たして、男性と見たのか、それとも?
今は笑い話になっていますが、世の中の価値観が変わって行く中、時々、自分の立ち位置を確認・修正していますよ、但し、あくまでも、個人的思考基準(他の人には強要しないという意味で)としてですが・・・。
昔は、足元重装備?で京都駅まで出ますと雪などなくって…、そんな経験が何度かありますが、
南と北の差も大きく、また積もるほどの雪降りが少なくなりました。
あらまあ~ですね。一瞥し、何かを感じたかでふと口にされたのでしょうね。
知人に常にボーイッシュな方がいまして、ある日、「名前を変えました」と言われたのですが、
そうなのかと、ただそのまま受けとめました。今に至ってもそのままのお付き合いです。
絶対にスカートをはかない子との長いお付き合いもあります。
いじめを受けることはなく中学校を卒業しましたが、高校生になった今、人の目が苦しくなったようです。
人が抱える様々な事情、理解しにくい部分はありますが、そのまま受けとめることに努めています。
世の中の価値観が見直されるにつれて、物の見方もやわらか~くと自らに言い聞かせるのが実情?
「自分の立ち位置を確認・修正しています」って、素晴らしいですね。
自分の価値観に縛られると難しくなりますよね。