昨日は父の祥月命日で、東本願寺にお参りをした。
亡くなって27年。生きていれば、101歳に。故人とはやはり命日を縁として、自分の日々を振り返ることになる。
40歳の前後で母、父となくした。私は「私」の存在は両親に帰結する?というほどの狭い思いをとても強くもっているからなのか、心の拠り所を失い、この世で一人宙ぶらりんといった淋しい感覚を味わっていた。最後は父母のもとに帰りたい、という願いを未だに抱いているし…。
あの頃は、賜った縁の中で、こんなはずではなかったと日々揺れ動いてばかりいた。かと言って不平をこぼすことはなかったと思う。そして、内々のことを外にこぼすことなどはできなかったし、まして遠く離れて暮らす両親には心配をかけまいという一心だった。
そこで「足るを知る」ことができていたらよかったのだろうが、言わない代わりに内に鬱屈するものを抱え込んでいくという感じだったか…。言葉にしていたら意識下のものを浮かび上がらせたかもしれないのに、そうした機会も失っていたようだ。
自分の思いに固執しながら安定を求めていても解決にはならない。深く根は下ろせないのだ。
心配をかける人がいなくなった。40代は両親の死を経て、少しづつ自身の再生に心を向ける日々を獲得していったような時期だったかな…。
写真を前に、おとうさんって呼んでみた。供養になるかしら。
年老いていくごとに
ますます会いたくなりますね。
1人で葛藤する日々でしたね〜
やっと気持ちが定まる頃には
老いてしまいました。
静かで穏やかな生活を想像してましたので、相当なストレスでした~(笑)
逆縁ではありませんから誕生日など記憶はしていますがそれだけのことで、
お盆はさほど思い出す間もなく過ぎ、やはり祥月命日だけは特別です。
40代前半までは心許して言葉にできる相手もいなくて一番きつい時期でしたが、
仕事を見つけ外に出るようになって気持ちをコントロールできるようになりました。
今の娘くらいで母を亡くしていることを思いますと、
もう少し長生きしていたいものだと思ったりしています。
2度のコメントをお許しください。
さて、さて、昨日の私ですが、
公民館は隣町の公民館でした(酷い..。)
ちなみに友人の男性は我が街の公民館の館長さんなのです。
友人は隣町の公民館と言われなくて、
しきりと謝られましたが。間違えてしかりです。トホホな一日でした。
体の衰退を感じてますね〜カルチャーに飛び込むまえに続くかな〜とか..。
それも相次いで。
大変だったと思いますが葛藤もおありだったでしょう。
乗り切られたのですね。
私の80何年はぬるま湯のなかでした。実家では両親の傘のなか、結婚後は夫の傘の下に。
寂しい悲しい感情はもうありませんが
ときに、父や夫と話をしたい気持ちに襲われます。
一人暮らすようになった今の私は
一番強いかもしれません。
それが父や母の命日というご縁で、気持ちをそうさせる。
説明のつかないもどかしさはありますが、深く静かに心休まるひと時を大切にしたいと思います。
精一杯、心配かけないように生きた若いころ。
それが今はゆったり大きな手の平に載せてもらって、あまえてみるひとときもまた、これからの力になるのでしょうね。
なんと「隣町」でしたか。
続くかどうか、それは確かに考えることですね。
夫の言うことと言えば、「無になることだ」というくらいでして、
「聖人君子みたいなことばかり言わないで」と返していたものです。
母亡き後、父が一人で暮らしていた時間を思うと少し悲しさが生まれます。
父自身が望んだ形ではあったのですが。
「今が一番強い」。今を受け入れ覚悟がおありなのですよね。
私もそうありたいです。
言っても仕方のないことは言わないに越したことないのですが、ストレスをためてしまったようです。
「言わなくてもわかるでしょ」ではなく、「言葉にしなくてはわからない」でしたような・・。
「話すことは辛い思いを放つこと」
今日、新聞紙上でこんなフレーズが目に留まりました。
お地蔵さんの耳になれますように、精進です。