9月25日、久しぶりに「観音の里めぐり」のバスツアーに参加し湖北路をたずねました。
東林寺 - 昼食 - 上丹生薬師堂 — 菅山寺の里坊弘善館 — 医王寺 — 浅井三姉妹の郷(何かと思えば道の駅でした)に立ち寄り長浜駅に戻って解散の一日コースです。
この日、東林寺では聖観世音菩薩立像が17年ぶりの御開帳(中開帳)でした。
集合した滋賀県のJR長浜駅から更に北へ35キロほど、人の手が入らない鬱蒼と茂った深い木立の中に小さなお堂はありました。ご住職の話に続き、自治会長さんの挨拶があって、ご開帳法要はまだ営まれている最中でした。小さなお堂から村の人たちが次々と出てこられたあと、参拝者は順番に堂内に入ります。お顔が見えないといけない、と順番が来るまでの間に、秘仏と回向柱とを結んだ白い紐にそっと、しっかりと触れて、このご縁に感謝。
狭い堂内では写真撮影が許可されていてフラッシュがたかれどうし。「形」のないままよりはお姿をを求めてしまうものなのだろうか。帰宅後、丹生神社に関して白洲正子さんの『かくれ里』に目を通していたら、世阿弥の言葉を引いて、ご神体というものは元来「秘スレバ花」なのだと言われていました。
秘仏のご開帳は至極貴重な仏教行事。拝観者には自己の心の開帳なのだとどなたかが…。真正面に立ってカメラを向けるという行為が、何かとても無作法な気がしないでもなくためらわれます。
記されていた縁起によれば、順徳天皇の御代1216年にこの地を訪れた比叡山の僧・泰恒法師によって建立され、自らご本尊を刻んで安置して、千花山東林寺と名付けたとあります。地区36戸、村人が持ち回りで世話役をして護寺されているとのことですが、押し寄せる高齢化。次回の御開帳が危ぶまれるという状況らしい。
『星と祭』(井上靖)で、きれいで美人だと描かれた医王寺の木造十一面観音立像。これまた深い深い山の中へと入っていきます。
明治22年、医王寺の僧・栄観が長浜の古物商の店頭に合ったものを買い受け、152センチの像を背負って寺に持ち帰ったのだそうです。「目も柔らかく口も濡れているようにみえ、頬は張りを持ちながらも優しく丸みを帯び、…ういういしい花嫁御寮連想させる」と日本画家・椙村睦親の文章を示していただけました。
正面に座し、少しづつずれつつ見上げたお顔。眼鏡を家に置いて出たおかげで、その口元はどこから見ても微笑みかけてくださる。ようにみえるのでした。裸眼の効能です。オペラグラスでのぞき込む人に、そんな鮮明にしてしまうよりと言いたくなるほど、何や誇らしいような良い気分に包まれたのでした。
この村でも30数軒のうち10件は空き家になり、高齢化が進んでいる、と80歳の世話方さんのお話でした。7月からひと月、東京藝術大学で開催される「観音の里の祈りと暮らし展」に出品された観音像。どのような場所に安置されているのか。隅っこに無造作に置かれている状態だったらとどうしようと気が気ではなく東京まで出張したそうで、わが子を愛おしむような心もちが感じられるのでした。入った正面にあってほっとした、と嬉しそうに。
上丹生薬師堂、素朴で剛健な造りに目を見張ります。堂はもとより電線の高さまで積もる豪雪の重みに耐えるという目的もあたようです。ここの秘仏の公開が待たれます。ご本尊の秘仏が本当にあるかどうかの調査があり、その時、収めた厨子の床が抜けていることがわかったのだそうです。その修理が終わるのに合わせてご開帳できないものかと、若い自治会長さんのお話でした。2年後? 50年に一度開帳の秘仏のようですが。
煩悩によって厚く閉じ込められた自分の心、果たして開く一日となりえたかどうか…。
東林寺 - 昼食 - 上丹生薬師堂 — 菅山寺の里坊弘善館 — 医王寺 — 浅井三姉妹の郷(何かと思えば道の駅でした)に立ち寄り長浜駅に戻って解散の一日コースです。
この日、東林寺では聖観世音菩薩立像が17年ぶりの御開帳(中開帳)でした。
集合した滋賀県のJR長浜駅から更に北へ35キロほど、人の手が入らない鬱蒼と茂った深い木立の中に小さなお堂はありました。ご住職の話に続き、自治会長さんの挨拶があって、ご開帳法要はまだ営まれている最中でした。小さなお堂から村の人たちが次々と出てこられたあと、参拝者は順番に堂内に入ります。お顔が見えないといけない、と順番が来るまでの間に、秘仏と回向柱とを結んだ白い紐にそっと、しっかりと触れて、このご縁に感謝。
狭い堂内では写真撮影が許可されていてフラッシュがたかれどうし。「形」のないままよりはお姿をを求めてしまうものなのだろうか。帰宅後、丹生神社に関して白洲正子さんの『かくれ里』に目を通していたら、世阿弥の言葉を引いて、ご神体というものは元来「秘スレバ花」なのだと言われていました。
秘仏のご開帳は至極貴重な仏教行事。拝観者には自己の心の開帳なのだとどなたかが…。真正面に立ってカメラを向けるという行為が、何かとても無作法な気がしないでもなくためらわれます。
記されていた縁起によれば、順徳天皇の御代1216年にこの地を訪れた比叡山の僧・泰恒法師によって建立され、自らご本尊を刻んで安置して、千花山東林寺と名付けたとあります。地区36戸、村人が持ち回りで世話役をして護寺されているとのことですが、押し寄せる高齢化。次回の御開帳が危ぶまれるという状況らしい。
『星と祭』(井上靖)で、きれいで美人だと描かれた医王寺の木造十一面観音立像。これまた深い深い山の中へと入っていきます。
明治22年、医王寺の僧・栄観が長浜の古物商の店頭に合ったものを買い受け、152センチの像を背負って寺に持ち帰ったのだそうです。「目も柔らかく口も濡れているようにみえ、頬は張りを持ちながらも優しく丸みを帯び、…ういういしい花嫁御寮連想させる」と日本画家・椙村睦親の文章を示していただけました。
正面に座し、少しづつずれつつ見上げたお顔。眼鏡を家に置いて出たおかげで、その口元はどこから見ても微笑みかけてくださる。ようにみえるのでした。裸眼の効能です。オペラグラスでのぞき込む人に、そんな鮮明にしてしまうよりと言いたくなるほど、何や誇らしいような良い気分に包まれたのでした。
この村でも30数軒のうち10件は空き家になり、高齢化が進んでいる、と80歳の世話方さんのお話でした。7月からひと月、東京藝術大学で開催される「観音の里の祈りと暮らし展」に出品された観音像。どのような場所に安置されているのか。隅っこに無造作に置かれている状態だったらとどうしようと気が気ではなく東京まで出張したそうで、わが子を愛おしむような心もちが感じられるのでした。入った正面にあってほっとした、と嬉しそうに。
上丹生薬師堂、素朴で剛健な造りに目を見張ります。堂はもとより電線の高さまで積もる豪雪の重みに耐えるという目的もあたようです。ここの秘仏の公開が待たれます。ご本尊の秘仏が本当にあるかどうかの調査があり、その時、収めた厨子の床が抜けていることがわかったのだそうです。その修理が終わるのに合わせてご開帳できないものかと、若い自治会長さんのお話でした。2年後? 50年に一度開帳の秘仏のようですが。
煩悩によって厚く閉じ込められた自分の心、果たして開く一日となりえたかどうか…。
この写真からひなびた里、地元の方が守り続けてこられた
お堂の様子など想像しました。
娘を亡くした主人公が十一面観音に出会って
心安らいだことも思い出しました。
高齢化の悩みはここも例外ではないようですね。
良いツアーにお出ででしたね。
担い手もないようです。林業だけでは食べていかれないですしね。
人里離れた地で土地の人たちの手でずっと守り継がれていることが、とっても尊い行為に感じられます。
信仰心厚い方々、表情は穏やかで素敵でした。
話題性もあったようで、私たち以外にも多くの参拝者でした。