京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

九十年も前に提起

2008年07月05日 | 日々の暮らしの中で
6月4日、映画「丘を越えて」を見たが、菊池寛の作品を読んだことがなかったので、ネットで拝見し、彼の「日常道徳」観に関心を持ったものだった。ひと月ほど前のことだが、今朝、またその菊池寛の名が目に入った。。

「朝起きると、あいかわらず親殺し子殺し、そして残酷な事件が目に飛び込んでくる。」書き出しにドキッとしながら…。
菊池寛の二つの小説を取り上げながら、まもなく始まろうとしている裁判員制度の前に立ちはだかる、困難な課題を提起しているようだ。
  ≪天眼≫「菊池寛の洞察力」 (宗教学者 山折哲雄)京都新聞7/5

『恩讐の彼方に』
徳川吉宗の頃の話。旗本の主人を殺し逃亡する市九郎だがやがて仏門に帰依。放浪の果てに、直面した大岸壁をくり抜いて道を通そうと、懺悔の気持ちからか悲願をたてる。二十余年の歳月が流れ、殺された旗本の息子が現れ対決となったが、やがて最後の壁が打ち砕かれて光が射しこむ。そのとき息子の心から一切の怨みが解き放たれていく。…幕切れ

『ある抗議書』
大正三年の、実際に起きた殺人事件を題材にしている。
年配の夫婦を殺した犯人に死刑の判決が下る。獄中でキリスト教に入信、感謝のうちに処刑された。その最後を伝え聞いた被害者遺族が、抗議の声を上げる。
殺された人間が地獄におちる苦しみの中で死んでいったのに、なぜ殺した者は天国に昇る心境を手にしてこの世を去ったのか。
遺族の気持ちを大審院長にぶつける抗議書の形式で書かれている。

両作品とも大正八年に、しかも3か月の間隔で発表されているという。
「人殺しの凶悪犯罪をテーマに、全く逆の立場から光を当てようとしている」
「懐の深い」、「複眼的な思考」「冷静な洞察力」と表現されている。
「菊池寛が九十年も前に提起していたことが、にわかに生々しい形でよみ返ってくるのである。」

被告人が有罪かどうか、有罪ならどのような刑が...。
しょく罪の意識、人間性の回復、被害者側の人権、と、いろいろ耳にするが、ああ、恐ろしいほどに怖さを感じる制度が始まる気がする。
素人の感覚で、人を裁く?


コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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yattro-様 ありがとうございます (kei)
2008-07-06 23:14:56
大罪を犯した人間でも救われるのか、救われることはないのか...、大きなテーマなのですよね。

作品自体を読んだことがないのに、なのですが、「日常道徳」のとらえ方からその人物像に興味を持ってしまいました。
この大きなテーマを両面から発想していること、あらためてただ感じ入っているだけです。

コメントをいただきありがとうございます。嬉しく思います。今後もいろいろお聞かせ下さい。
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初めてのコメント、お許しを。 (yattaro-)
2008-07-06 18:07:10
歴史は繰り返すとか言われますが、90年前の問題提起が、現在の世にも通用してあまりあるというのも、ちょっと不思議な感覚ですね。
それだけ、時間の経過の割には、人間の本質的な考え方に大きな変化がないのでしょうか。
それとも、菊池寛という偉大な小説家の時代を超えた眼力で将来を見越していたと言えるのでしょうか。
大変勉強熱心なkeiさんのブログ、参考になります。
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