Luntaの小さい旅、大きい旅

ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

「遠野物語」のこと

2009-10-02 02:31:23 | 雑談
遠野に行こうと思い立った時、まだ「遠野物語」を読んだことがなかった。

せっかくの機会だからとアマゾンで文庫を取り寄せてみると、この有名な本の本編はたったの57ページしかない。

これが日本民俗学の原点ねえ、と思いつつ読んでみてまたびっくり。
てっきり「むかし、むかし、あるところに」式の昔話集だと思っていたら、これは100年前の遠野の「現在」の話だったのだ。

何々村のだれそれが若い頃に経験した話とか、話の収集者である佐々木喜善の親戚や友人の話とか、名前がやたら具体的でその分臨場感がある。100年前の遠野では天狗や山男、神隠しに遭うことや狐に化かされることはお話ではなく、現実だったのだ。

特に山男の話はたくさんあって面白い。背がとても高く、顔が赤くて眼が光るという記述を読むと、これは白人のことではないかと思う。三陸海岸からそう遠くない山奥に、たとえばロシアあたりからの漂着者が隠れ住んでいたと考えたら辻褄が合わないか。そんな異形の者を土地の人間は見かけただけで鉄砲で撃ってしまったりするのだから、彼らが隠れて住み、時々村の女をさらっていくというのも現実的に思える。

さらに面白いのは同じ文庫本には「遠野物語」の25年後に出版された「遠野物語拾遺」が収録されているのだが、その文体がオリジナルとはまったく異なっていること。もともとの本編は「川には河童多く住めり」と文語調なのだが、25年後になると「川には河童が多く住んでいる」と現代の文章になっている。オリジナルの出版が明治43年、「拾遺」の出版が昭和10年。この時代の日本がどれだけのスピードで変化していたかがこれだけでもわかる気がする。

たった100年前、日本人は闇を恐れ、たたる神をうやまい、動物や妖怪と共存していた。しかしその人々にはちゃんと名前や住所があって、喜怒哀楽も現代人と変わりはない。

「遠野物語」を読むと100年の間に変わったもの、変わらないもののことを考えさせられる。


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コメント (2)
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