今日は、自分の評価を下げることがはっきりわかっていながら、黒い感情が抑えられない。
なので愚痴る。
吹けば飛ぶような、わたしの評価など、どうでもいい。
つい先日、なぜか夫が、トイレットペーパーの1ロールをトイレ内の補充棚に入れようとする流れがあった。
「ここ?」と、トイレ掃除器具が入っている収納スペースに入れようとした。
そこは、液体掃除薬剤や、水回り掃除用具が入っている場所なので、ビニール袋で覆われていない、個別のむき出しトイレットペーパーを入れると濡れる恐れがある。
第一、棚の高さは30〜40センチあり、1ロールずつ並べるには、高い。
トイレットペーパーは、その隣にある、一個ずつ並べて入れるトイレットペーパー専用に作られた、スライド扉のある棚にいつも入れている。
もう20年前からそこ。定位置である。
水回り掃除器具入れの中にトイレットペーパーを入れようとする夫を見て、愕然とした。
(入れなかったけれど)
入れる場所が違う、間違っている、とかではなく、この人は20年間、一度もトイレットペーパーを交換したことがないのだという事実に衝撃を受けた。
昔の男性は、台所に入ってはいけないとされ、また、家の中のことは全くわからないことが男の甲斐性であるかのごとくだった。
男はシゴト。女は家庭。
夫は今でも、ゴルフの用意をしてくれる奥さんがいるゴルフ仲間を羨ましがっている。
その奥さんはゴルフをしないにもかかわらず旦那さんのゴルフ用意をいつもする。
奥さんがいないと、下着の場所すらもわからない。
なに、それ?
夫は、母親である教育ママゴン(姑)に男としての何かを潰されている。
母親(姑)も、息子である夫も、お互いそれで良いのだが、後を引き継いだ妻(わたし)は、忌々しく苦虫を噛み潰している。
舌打ちどころでは到底収まらない。
なぜ、あんなにスポイルし、家事が全く出来ないハンディキャップ人間に育ててしまったのか。
出来ない以前に、意識の問題。
何か意図、目的があるのか。
あるとしたら、何なのか。
夫は大学が遠隔地にあったため、実家を離れ一人住まいをしていた。
せっかく家事能力を身につけることが出来るチャンス、良い機会があったのに、みすみす取り上げて潰されてしまった。
犯人は、母親。
家事電化製品は一通り揃えてもらっているのに、炊事洗濯掃除などする由もなく。
姑は、近くに住む夫の父親(舅)の姉妹に対価を支払い、息子が自分ですべき家事を丸投げサポート依頼していた。
(この話、蝶ブログに何度も何度も書いているが、黒煙立ち込める火事は鎮火せず気が収まらない)
まったく気が知れない。
夫は家に洗濯機があるのに、わざわざ車で隣の市まで洗濯物を持って行って洗濯をしてもらっていた。
寝たきり病人か?
バリバリに若い自由な学生なのに!
ご飯をよばれ、お腹もこころも満たされ、寂しくないように配慮されていた。
有料で!!しかも、親のお金と采配で!!
まったくそれが当たり前のことだと心底思っていただろう。
家事は誰かにしてもらうもの、と。
オバさんが洗濯や家事をしてくれるのを、単身住まいの可愛い甥に対する単なる好意だと思っていたことだろう。
嬉しい自主的ボランティアだと。
裏では取引が成立していた。
だが、登場人物全てが満足しているのだから何の問題もない。
しかし、そこに問題がある。
母親はなぜ、息子に自分の身の回りのことを自分でさせない?
一種の逆ネグレクトではないだろうか。
過干渉。
自立の芽を摘む。
何のために、自立の芽を摘むのか?
息子のため?
どういうことが、息子のためなのか?
さっぱりわからない。まったくわからない。
オバさんも文字通り、喜んで引き受けていただろう。
別にお金目的ではないだろう。
全然、お金に困っているわけではない。
オバさんの息子たちとも年齢も近いし、親戚の暖かい仲良い交流に、誰が異議を唱えることだろう。
(オバさんの夫)オジさんも、息子たちと同じ年頃の甥の来訪には喜んでいたと想像する。
一族が全員、楽しく幸せなのに、わたしがなぜ、ひとり、こんなに腹を立て怒らなければならないか。
まるで、平和な街に現れる札付きの悪モノのようだ。
田舎で見守る両親、祖父母。
都会で迎えるオバ一家。全員が幸せ。
そこには崩しようがない幸せ構図があり、完結している。
なのに、である。
わたしは、その中で孤軍奮闘していた。
虚しい、やるせない、腹立たしい、悔しい、馬鹿らしい、どうしようもない思いに駆られていた。
時の経過がそれらの感情を封印していたが、ひょんなことから、当時の断片に接することがあると、一気に堰を切ったようにヘドロが溢れ出す。
たった一つの小さなトイレットペーパー1巻で。
コトっとドアが開き、溢れ出る思いに飲み込まれそうになる。
当時の思いはドアの向こう側で膨れ上がり増長し、化け物になっている。
・・・
と、文章はここでコト切れていた。
「憤死」というものがある。
まさに「憤爆睡」。
(こんな言葉はあるのか、ないのか知らないが)
幼児が泣きながら寝てしまうように、怒りながら寝てしまった。
しかし、目が覚めたら、また気分スッキリ。爽快。
そう言えばブログ、どうなってたんだっけ?
アップした?
消えた?
居眠りヨダレの跡形は見当たらなかったが、書きかけのものをほったらかして憤りながら寝入るのは、初めての経験。
これからも、こういうことはあるのかも知れない。
脳が長時間、激しい感情に対応出来ず、パタンと蓋を閉めてしまうのだろう。
安物の脳を持つと、後を引きずらないから良いような、良くないような。
モノゴトの解決や追求には向いていないようだ。
寝てしまうなんて、自分でも笑ってしまう、、、。
わははは。
こうやって着々と確実に歳を取って行くのだろう。