蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ばあちゃん、嫌い

2020-07-20 | 日々のこと
外出先から自宅へ向かうバス停でバスを待っていると、、、
何やらいつも見慣れている背格好の子供たちが近付いて来た。
あらま、孫軍団。
後ろを見ると、ノーメイク・マスクの長女。
孫たちはそれぞれにリュックを背負い、各自、本を借り、図書館帰りのようだった。
リュックの中には12冊の本。

同じバスに一番下孫Cも乗り込んだ。
長女が「ばあちゃんのお隣に座り」と促すと、Cは即座に「ばあちゃん、嫌〜」とリアクション。
またまた即座にわたしは「まあ失礼な子!」とマスクの下から大人げなく不満声が期せずして漏れた。

バスから降りたら、長女だけ、いったん、長女の家に戻り、後にわたしの家に来ると言う。
子供たちだけ先発隊として我が家に。
孫Cは、ばあちゃん嫌い発言の割にはすんなりおとなしく、わたしと手を繋いだ。

右と左の靴を左右間違えて履いている孫Cの手を引いて、わたしの自宅に向かった。
靴は左右反対でも上手い具合に歩くものだと妙に感心した。
片方の手には、アンパンマンクッキーをしっかり抱えて、とことこ歩いた。
ちょっと前なら泣き叫んで「ばあちゃん嫌〜」と嫌がるのだが、少しの間に成長したものだ。

ところで、話は変わるが、、、。
人はいくつもの幸せを同時に手に入れられない。
長女も新幹線通勤をしていた時期もあったが、仕事の第一線から離れ、ワーキングマザーの道を選んだ。
その際、彼女が口にした言葉が忘れられない。
「組織の歯車の一つは、自分の代わりの人はいくらでもいるけど、自分以外の誰でもない、自分しか出来ない道を選んだ」と。
よくあちこちで度々耳にする言葉ではあるが、実際、実体験を通しての言葉にはリアリティがあると感じた。

彼女は不本意ながら、結果的にはいつも望みの第二希望コースになる。
学校も第二希望、就職も第二希望、結婚相手も第二希望、だそうだ。

わたしの目から見ると、十分すぎるほど十分だと思う。
(わたしは、最下位すれすれ狙い)
彼女はよく頑張っている。
わたしの血は全く流れていないのではないだろうかと本気で思うほど、わたしとは正反対で全然似ていない。
生まれもった星、性質なのだと勝手に想像し、理解している。
甘々で頼りない親に代わり、下に続く弟妹たちの厳しい引率者、リーダーとなって引っ張って行ってくれて感謝している。
どっちが親でどっちが子供なのかわからないシッカリぶりで、夫もわたしも、今はウチから娘が引き上げると警戒事態宣言が解かれたのごとく、思いっきり脱力している。
子供がシッカリして嬉しいのは、まだ親が元気モリモリのうちであり、ある時点で逆転の憂き目に遭う。
嬉しい悲鳴なのか情けない悲鳴なのか、、、。
まあ、頑張って家族を引っ張ってくれる長女ではある。

じつは、この長女の陰には立役者、功労者がいる。
その人は、娘婿。
今のご時世は、ああいう、仕事もしっかりする一方で、よく家事育児をし、優しいパパが多いのだろう。
「家事育児を手伝うダンナさんは素晴らしいね」と、わたしが言うと、
「手伝うだって?
半々が基本なのに、手伝うという表現はおかしい!」と長女は目を三角にして言う。
まあそうだけど、年齢が若くても頭が古い男性もいる。
まだ未だに家事育児は女性の仕事と頭から抜けない人が少なからずいる。
だが、フルタイム共働きでは、お互い仕事で疲れているのは同じではないか、と。
確かに、、、。
でも、まだまだそんな理解力があり行動する男性ばかりではないそうだ。

そういう男性を夫に選んだのは長女の功績だと、長女は言う。
幸運の第二志望説か。
しかし、自分の能力以上のものを相手に求めるのはおかしいので、夫婦共に同等の能力を持ち、バランスが取れているのだと思う。
結構なことである。
このイクメン様のおかげで、わたしは必死で孫サポートをしなくて済む。
やれやれ。
自分が良ければなんでもよい。
わたしは自己中一本やりなので。
「ばあちゃん嫌い」と泣かれても涼しい顔。
(もっと深刻な事態のケースではまた違うだろうけれど)


幸せをあれもこれも、手に入れるのは無理だ。
望むほうが間違っている。
一つでいい。
一つだけでもお釣りが来る。
十分満足で感謝している。

そのたった一つの幸せを手に入れるためには、犠牲も強いられることもあるだろうし、小さな不満や愚痴もあるだろう。
大きな幸せには、小さな不満は付き物、ワンセット、切り離せない。
100パーセント晴れ渡る日ばかりではない。
なので、それでいいのではないかと思う。