相変わらずシビレる。
ミュンヘンからのお便り。
脳をキュっと引き締めてくれる深い思考のクールな文章に加え、何度もしつこく書くが、写真が美しい。
色の対比と、焦点の対比。
今朝はその一枚の、緑の中に紅い小花が可憐に咲く写真を見て、ほお〜とため息をつきながら、頭に浮かんだことがある。
こんな絵画、実家の応接室に飾ってあったなあと。
大きな額縁、大きな絵画。
わたしはそれが大好きだった。
他にも大好きな絵画を大小混じえて実家から貰った。
それは、今、夫の実家に置いている
のだが、箱から開けることもなく一度も見ていない。
絵画は、絵画だけでも価値があるが、どこに、どういう風に飾ってあるかによって、大きく違ってくるように思う。
宮廷に飾られた代々の継承者たちの肖像画は、その宮廷でこそ何百倍も意味がある。
夜中に、顔がにっと笑ったり、しくしく泣き声が聞こえたりしそうで、絶対に日没以後に入りたくないが。
ある有名な日本画家の美人画は、ちびっ子たちが泊まりに来たら布団を出し入れする我が家の物置と化している部屋に、むき出しで立て掛けてある。
布団を仕舞う時、やあ!こんにちは、美人さん!と、気が向くと、わたしは日本美人に、にっこり微笑みかける。
布団を出す時は余裕がないから目にも入らない。
布団に用事がない時は、存在すら忘れている。
でも、見ようと思えばすぐに目にすることができる。
絵画はそうでなければ意味がない、とつくづく思う。
無意識に毎日目に入る、生活の一部みたいであってほしい。
が、なかなかそうはいかない。
湿度調整や日光で色焼けしたり、と、不安材料がいっぱい。
中世のお城イメージだと、あんまり煌々と太陽の光が入らないイメージなので、暗く塗りたくった絵画も日焼けしないような、わたしの先入観がある。
日常生活には、埃をかぶっても日焼けをしてもいい、普段用のお気に入り作品を飾っている。
と、それは前置き。
相変わらず長い、、、。
ミュンヘンの一面お花写真を見て、夫の実家に置いている絵画、いつか箱から出して一堂に並べて、眺めて暮らしたい、と、ふと思いついた、、、が、1秒後、首を横にブルンブルンと振る。
あの地で暮らすのは嫌だ。
仮に敷地内を全て自分の理想に近づけた快適なものにしたとしても、、、
敷地内から一歩も出たくない。
しかも、誰かが訪れてくる可能性もある。
何がそんなに嫌なのか。
もう誰もいないではないか。
自分が好きなようにすればいい。
仕事の面でも、今も将来も最適な地ではないか。
うーん、、、なんなんだろう。
周りには親戚がズラリ住んでいる。すぐ近隣だったり、少し離れても徒歩圏内だったり。
それが、たまらなく嫌。
別に喧嘩をしたわけでもなく、舅や姑を始め、代々先人たちが暮らしてきた経緯の重みもある。
それぞれに頑張ってきた、丁寧な時間の重みである。
感謝こそすれ、嫌がる理由はどこにもない。
でもなぜなんだろう、、、。
夫の実家で30数年前、1年間暮らしたことがある。
夫が単身赴任中の同居。
その時は姑の姑(夫の祖母)があの世に行ってから2年後。
姑の姑は、わたしの末子が1歳の時に他界した。
姑の姑のことを「ご新造さん」と呼ぶ人もいたが、とても賢夫人だった。
威厳のある、びしっ、シャキッとした明治生まれの女性。
ちなみに、蛇足。
姑は、末っ子で、ちょっとお転婆系、娘(義姉)は、頭の古い理系シャキシャキ系。
嫁(わたし)は、文系、末っ子のほほん系。
娘は、シャキシャキ系と大人し系。
孫娘は、お転婆系。
で、同居当時、地元の子供会にも入っていた。
そこには近隣に住む親戚の子供たちも当然入っていて、ママたちとも顔見知りになった。
昨日、そのママの一人の訃報を聞いて、びっくりした。
あの人、、、亡くなったのか、、、と。
なにしろ、町内の一人一人の個人情報背景は明治前後あたりから把握されている。
新しい人が流入して家族を形成し、子供は近隣地のどこどこに住み、孫はどうたらこうたら、、、
老夫婦が亡くなった後は、子供が家を処分したり、そのままにしていたり。
いずれ年齢の順番に一人一人この世を去ると、昔と違って住居はおそらく空き家になるだろう。
家も語り継ぐ人もいなくなる。
個人情報は、わたし世代と次代ぐらいでストップか。
でも、まだ親戚の皆さん、近隣に住んでいて、次世代もいる。
わたし世代がこの世からいなくなれば、つきまとう個人情報からも解放されるが、既に次世代に伝えている情報もある。
情報がまったく消えて無くなるわけではない。
別に悪いことをしているわけではないので、近隣に個人情報が伝わっても悪くないのだが、住みながら同時に日々、情報が更新されるのが嫌。
わたしは情報を共有するのが嫌。
人は人。距離が欲しい。
ということで、書き尽くしていないが、夫の実家のある地は、嫌なのだ。
へんに密着せず、人の私生活に踏み入らない、さらっとした暮らしがいい。
もちろん、地域の最低限の義務やルールは守る。
人に見られていないとは思うが、自分の凝り固まった思い込み、偏見のせいで、自分の生活に興味を持たれるのが、たまらなく嫌。
わたしは、どこの地域にいても洞穴か地下のモグラがいい。
今、住んでいる地域は、新旧入れ替わりも適度にあり、快適である。
出身はどこの誰ともわからないと仮定しても、変な人は、いない。
とは言っても、社会の病理は日本国中、金太郎飴のように、この地域も例外ではなく抱えている。
話をぐ〜んと戻し、、、
夫の実家で絵画に囲まれて晩年は暮らしたい、、、という要望はない。
しかし、今住んでいる家では、大きなサイズの絵画を鑑賞するスペースがない。
だが、あの大好きな絵画は、頭の中だけに留まっているのは、いかにも惜しい。
晩年、どうしたら、思いが叶うかなあと、悩んでいるポーズを取りながら(悩んでいるフリ)、じつは楽しい老後、将来の図をのんきに描いている。
追記。
その頃には、子供たちに、強制断捨離されて、絵画もろとも不要品いっさい、処分されているかも知れない。
今一度、絵画の中身を頭の中にしっかり刻み描いて、お花畑を夢見よう。
追記の追記。
宮廷生活に馴染めなかった、シシィ(オーストリアのエリザーベト皇后)、孤独を愛するという点だけ、感情移入できる。
時代に巻き込まれた悲運の最期を遂げるシシィさんとは、美貌、才能、行動、背景、全く違うけれど。
失笑を買う例え、というか、現実離れした明らかにオカシイ例で、いつも墓穴を掘る、、、。