蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

絵画は観てこそ価値がある

2020-04-20 | 無題
相変わらずシビレる。
ミュンヘンからのお便り。
脳をキュっと引き締めてくれる深い思考のクールな文章に加え、何度もしつこく書くが、写真が美しい。
色の対比と、焦点の対比。

今朝はその一枚の、緑の中に紅い小花が可憐に咲く写真を見て、ほお〜とため息をつきながら、頭に浮かんだことがある。

こんな絵画、実家の応接室に飾ってあったなあと。
大きな額縁、大きな絵画。
わたしはそれが大好きだった。
他にも大好きな絵画を大小混じえて実家から貰った。
それは、今、夫の実家に置いている
のだが、箱から開けることもなく一度も見ていない。

絵画は、絵画だけでも価値があるが、どこに、どういう風に飾ってあるかによって、大きく違ってくるように思う。
宮廷に飾られた代々の継承者たちの肖像画は、その宮廷でこそ何百倍も意味がある。
夜中に、顔がにっと笑ったり、しくしく泣き声が聞こえたりしそうで、絶対に日没以後に入りたくないが。

ある有名な日本画家の美人画は、ちびっ子たちが泊まりに来たら布団を出し入れする我が家の物置と化している部屋に、むき出しで立て掛けてある。
布団を仕舞う時、やあ!こんにちは、美人さん!と、気が向くと、わたしは日本美人に、にっこり微笑みかける。
布団を出す時は余裕がないから目にも入らない。
布団に用事がない時は、存在すら忘れている。
でも、見ようと思えばすぐに目にすることができる。
絵画はそうでなければ意味がない、とつくづく思う。
無意識に毎日目に入る、生活の一部みたいであってほしい。
が、なかなかそうはいかない。
湿度調整や日光で色焼けしたり、と、不安材料がいっぱい。
中世のお城イメージだと、あんまり煌々と太陽の光が入らないイメージなので、暗く塗りたくった絵画も日焼けしないような、わたしの先入観がある。
日常生活には、埃をかぶっても日焼けをしてもいい、普段用のお気に入り作品を飾っている。

と、それは前置き。
相変わらず長い、、、。

ミュンヘンの一面お花写真を見て、夫の実家に置いている絵画、いつか箱から出して一堂に並べて、眺めて暮らしたい、と、ふと思いついた、、、が、1秒後、首を横にブルンブルンと振る。
あの地で暮らすのは嫌だ。
仮に敷地内を全て自分の理想に近づけた快適なものにしたとしても、、、
敷地内から一歩も出たくない。
しかも、誰かが訪れてくる可能性もある。

何がそんなに嫌なのか。
もう誰もいないではないか。
自分が好きなようにすればいい。
仕事の面でも、今も将来も最適な地ではないか。

うーん、、、なんなんだろう。
周りには親戚がズラリ住んでいる。すぐ近隣だったり、少し離れても徒歩圏内だったり。
それが、たまらなく嫌。
別に喧嘩をしたわけでもなく、舅や姑を始め、代々先人たちが暮らしてきた経緯の重みもある。
それぞれに頑張ってきた、丁寧な時間の重みである。
感謝こそすれ、嫌がる理由はどこにもない。
でもなぜなんだろう、、、。

夫の実家で30数年前、1年間暮らしたことがある。
夫が単身赴任中の同居。
その時は姑の姑(夫の祖母)があの世に行ってから2年後。
姑の姑は、わたしの末子が1歳の時に他界した。
姑の姑のことを「ご新造さん」と呼ぶ人もいたが、とても賢夫人だった。
威厳のある、びしっ、シャキッとした明治生まれの女性。

ちなみに、蛇足。
姑は、末っ子で、ちょっとお転婆系、娘(義姉)は、頭の古い理系シャキシャキ系。
嫁(わたし)は、文系、末っ子のほほん系。
娘は、シャキシャキ系と大人し系。
孫娘は、お転婆系。

で、同居当時、地元の子供会にも入っていた。
そこには近隣に住む親戚の子供たちも当然入っていて、ママたちとも顔見知りになった。

昨日、そのママの一人の訃報を聞いて、びっくりした。
あの人、、、亡くなったのか、、、と。

なにしろ、町内の一人一人の個人情報背景は明治前後あたりから把握されている。
新しい人が流入して家族を形成し、子供は近隣地のどこどこに住み、孫はどうたらこうたら、、、
老夫婦が亡くなった後は、子供が家を処分したり、そのままにしていたり。
いずれ年齢の順番に一人一人この世を去ると、昔と違って住居はおそらく空き家になるだろう。
家も語り継ぐ人もいなくなる。
個人情報は、わたし世代と次代ぐらいでストップか。
でも、まだ親戚の皆さん、近隣に住んでいて、次世代もいる。
わたし世代がこの世からいなくなれば、つきまとう個人情報からも解放されるが、既に次世代に伝えている情報もある。
情報がまったく消えて無くなるわけではない。

別に悪いことをしているわけではないので、近隣に個人情報が伝わっても悪くないのだが、住みながら同時に日々、情報が更新されるのが嫌。
わたしは情報を共有するのが嫌。
人は人。距離が欲しい。

ということで、書き尽くしていないが、夫の実家のある地は、嫌なのだ。
へんに密着せず、人の私生活に踏み入らない、さらっとした暮らしがいい。
もちろん、地域の最低限の義務やルールは守る。
人に見られていないとは思うが、自分の凝り固まった思い込み、偏見のせいで、自分の生活に興味を持たれるのが、たまらなく嫌。
わたしは、どこの地域にいても洞穴か地下のモグラがいい。

今、住んでいる地域は、新旧入れ替わりも適度にあり、快適である。
出身はどこの誰ともわからないと仮定しても、変な人は、いない。
とは言っても、社会の病理は日本国中、金太郎飴のように、この地域も例外ではなく抱えている。

話をぐ〜んと戻し、、、
夫の実家で絵画に囲まれて晩年は暮らしたい、、、という要望はない。
しかし、今住んでいる家では、大きなサイズの絵画を鑑賞するスペースがない。
だが、あの大好きな絵画は、頭の中だけに留まっているのは、いかにも惜しい。
晩年、どうしたら、思いが叶うかなあと、悩んでいるポーズを取りながら(悩んでいるフリ)、じつは楽しい老後、将来の図をのんきに描いている。

追記。
その頃には、子供たちに、強制断捨離されて、絵画もろとも不要品いっさい、処分されているかも知れない。
今一度、絵画の中身を頭の中にしっかり刻み描いて、お花畑を夢見よう。

追記の追記。
宮廷生活に馴染めなかった、シシィ(オーストリアのエリザーベト皇后)、孤独を愛するという点だけ、感情移入できる。
時代に巻き込まれた悲運の最期を遂げるシシィさんとは、美貌、才能、行動、背景、全く違うけれど。
失笑を買う例え、というか、現実離れした明らかにオカシイ例で、いつも墓穴を掘る、、、。

変身願望

2020-04-19 | ファッション
gooさんのユーザーサービスで「アピールチャンス!」という機能がある。
gooユーザーにランダムに回ってくるのだが、回ってくるや否や考える間もなく、指が勝手にビッと最短で動いてアピールする。
しかも、昨日もアピールチャンスが来たので、昨日アップした記事をオススメ記事にしたばかり。
今日は、今から取り掛かる前のぐだぐだタイムだった。
で、一昨日も性懲りなくその日アップした記事をアピールチャンスに登録した。
なので、先程、指が勝手に登録した記事は、1度ならず2度目ということになる。
使い回し感あり。新鮮味のない使い古し。
指が勝手に動くから仕方ない。
しかし、指の暴走を脳は止められるのだが、わざと見過ごす振りをして、確信犯。
ではあるが、自分を自己擁護するために言うと、アピールチャンスが巡ってきても、アピールしない時もある!
て、なんだかムキになって言っているところが、うら哀しい。

と、指の準備運動はこれぐらいにして。

さて、今日は日曜日。
曜日感覚がなくなって久しい。
いつもならとっくに始動し、出かける直前。
付けまつげ、しっかり付けた後、、、ぐらいの時間なのだが。
コロコロコロナで、付けまつげともしばらくサヨウナラしている。

そもそも、付けまつげとは?
わたしにとっては、武装のひとつ。
相撲取りが土俵に上がって、自分の顔や身体を思いっきりピシバシ叩くように、わたしは気合いを入れている。
気合いが、なんで付けまつげ?となるが、気が弱い人が、真っ黒のサングラスをかけるようなもの?
(サングラスにスキンヘッドの、その筋の凄く怖いオーラを放つ顔見知り男性がいたが、サングラスを取ると、すごくかわいいチャーミングなパチクリお目々だった、、、)
あるいは、ヤクザ映画を見た後、映画館から出る男性は肩をゆっさゆっさ前後交互に揺らし、ガニ股で、ヤクザになった気分になるらしい。
高倉健とかに自分がなったように感情移入するそうな。
(昭和真ん中世代のわたしには、ニヤミス世代?
わたしはヤクザ映画は見ない。
暴力系は嫌い)
あれと少し似ている?
要は、外見を武装して、自分を奮い立たせるのだ。

だが、付けまつげは本人が思っているほどの効果はなく、スマホ動画で見ると、全く代り映えしない、ブサイクな顔。
そこで、しゅんと青菜に塩になるかといえば、そうではない。
写真や動画など見ない、撮らない。
臭いものには蓋、しかも、きっちり蓋をする。
誰かが何か言っていたとしても、聞こえないフリ。
そして自分に都合が良いように無理やり解釈する。

わたしは女装の趣味があるのか?
いえ、戸籍も身体も一応女性です。
付けまつげ心理を分析、解析すると、男性の女装趣味が理解できる手助けになる。
誰にでもある、変身願望。
性をまたぐこともある(バイアス、トランスジェンダー)し、人格が変わることもある。
メイクや装具だけでなく、車に乗るとやたら凶暴になったりする人もいる。
抑圧されたものが解かれるのだろう。

わたしの付けまつげは、別に抑圧を跳ね返す意図はない。
まつげエクステンションにも間違えられる程度の、ささやかな、地味〜な、付けまつげである。
前に姉に「あんた、付け方がオカシイ」と言われたが、あの時はビギナーだった。
試行錯誤のスタートラインだった。
あれから何年も経っているので、付け方はあの当時より上手くなった(はず)。
しかも、動作が早くなった。
というよりは、理想と現実のギャップがいつまでも埋まらないため、完成度の理想ハードルを下げた。
化粧の一環、最後の仕上げという位置付け。
しかし、間違っても、趣味の場以外や若い人たちがいる場には付けていかない。
そんな墓穴を掘る勇気はない。
場をわきまえないと、かっこ悪く痛いだけ。
何歳まで付けるのか、自分のこころの耐性に興味がある。
(見た目の耐性は、過ぎている)

と、こんな心情は吐露したくなかったが、成り行き上、致し方ない。
(て、どんな成り行き?)

わたしが、書きたかったのはこんなことではなく、別のことだったのに、助走の序章の女装で文字数を使い切ってしまった。(制限文字数のまだ10分の1のようだが、、、)
ではまたの機会に。
(て、こればっかり)









モラハラとは対峙しない

2020-04-18 | 日々のこと
小学校、休校に加え、ついに保育所も休業。
近くに住む親は当てにされる。
しかもスープの冷めない距離は、スープだけでなく、子供も寝たまま運べる距離だ。
ちびっ子たちをぽいっと投入されるや否や学童保育&保育所に変わる。

きょうだい、ちびっ子が3人いたら、似たような年頃だし、親も家も環境も同じだから、ほっておいても遊ぶだろう、、、
という楽々子育ては、わたしの子供だけだった。
年子で3人、とても仲良く遊んでいた。
親から喧嘩仲裁や介入も、遊んであげたり、本読みもしてあげた記憶がない。
なにしろ、お互いに遊んでいて、年子は大変だけど、遊びに関してはなんと楽なんだろうと、いつも喜んで手抜きできた。
(教育は手をかけたが)
長女の強いリーダーシップと、下2人のおとなしい性格がマッチしていたようだ。

が、、、
長女の子供、ちびっ子3人。
バラバラで、それぞれ相手をしてあげなければならない。
小学1年にもなっているA(休校中に自動的に2年になった)まで、「ばあちゃん、こっち来て!これとこれ、どっちがいい?」とアプローチしてくる。
1年半年下の弟とは意見が合わず、別行動。
弟は、また全く違う1人遊びをしていて、わたしはフォローしている。
末子、女王様Cは、当然、一人っ子のごとく。
この子ら、めんどくさいわ〜。
1人に相手していると、別の1人はほったらかしになるし、なんでみんなで遊ばない?
わたしもニコニコ相手していたが、顔が段々疲れてきた。

(※ちびっ子たちは、わたしの大切な生き甲斐の一つだが、生き甲斐も棚からぼた餅というわけにはいかない)


自分の子供は楽だったかも知れないなあ、と今、振り返る。
というより、髪振り乱して余裕がなかったんだろうけれど。

末娘は、「おねえちゃんが死んだ夢を見た」と当時言っていたが、これは実はシリアスな事態だったのでは?
長女に、かなり抑圧されていたと思う。
長女は、「○○(次女)が大嫌いだ」とよく言っていた。
しかし、わたしは全然お構いなしになんの手も打たず時間が過ぎた。
姉妹は今も根に持つ部分もあるだろうけれど、仲良くやっているように思える。
上と下にギューギューに挟まれた軋轢(あつれき)のかたまり、長男は、遠くに飛んで行ったまま、帰って来ない。
さぞや清々しいだろうと思う。
父親(わたしの夫)の期待を押し付けられて、逃げたなあ、、、。

父親(夫)はそもそも、自分がそうだからといって、息子にも同じような道を背負わせるのは、どうかと思う。
息子に逃げられるのは、わたしも多少困るのだが、反面、逃げろ逃げろと応援している部分もある。

なんの疑問も持たず真っ直ぐ育った夫は、けっこうなお方なのだが、、、真っ直ぐをそのまま家族に押し付ける。
当たり前のごとく。
立ち止まって考えたり疑問を持ったりすると、親たちの敷いたレールから外れる危険性があるので、それはそれで良いのかも。
選択肢を持つことは、良いとは限らない。

考える余裕を与える前に、十二分に満たされ満足を与え続ける。
快適を提案し続ける。
本人は気づかないまま、手足をもぎ取っている。
自分で考える前に、常に一歩先の満足を与え続けられると、どうなるか?
ママはいつも他のことを考えなくてもいいように道を整備してくれる。
捻くれることなく真っ直ぐ、やるべきことだけをする。
それはそれで、満ち足りた人生だと思う。
疑問ばかり感じて、何にもしないより、疑問を感じずに、ばんばん、どんどん行動するほうがいい。
とは思うが、、、
アクセルとブレーキみたいなものか。
アクセルとブレーキは、分野によって役割交代になる。
両極端の性格が夫婦である場合、、、うまくいくこともあるし、いかないこともある。
両方あると、子供には良くも悪くも両面が見えて、いいんじゃないかと。
ただし、夫婦同士、お互いはどうなんだろう。
純正栽培された人は悪くはないが、全く柔軟性がなく、人の道を理解できない。
それはそれで、理解しないまま一生進めたら幸せなんじゃないかと思う。
人はお互い別の人間だから、接点部分があればよい。
違うということが判ればよい。
同化する必要はない。
自分とは違う人と暮らすんだから。

しかし、これまた眠っている子を起こされる瞬間がある。
ふいに逆鱗スイッチを押される。
怒りというよりは、哀しみ。
自分の全人格を全面否定されたような気になる。
これは、モラハラに繋がるのだろうが、する方は、モラハラという自覚が全くない。
された方が声をあげ、丁寧に説明し、啓蒙啓発すべきなのだが、もう相手をどうにか変えたいという、わたしの細胞が死んでいる。
赤から紫色になり、黒くなる手前。
このまま黒くなればよいと思っている。
自分にも原因があるし、解決策もよくわかっているが、行動しない。
サボりだから。気力がない。
外科手術はしない。
どんな腫瘍かよくわかっているが、腫瘍を抱えて生きていく。
時々、なんらかで痛むと収まるまでじっと待つ。

暗い人間だと敬遠されると思うが、誰しも陰の部分は持っていると考える。
自覚するかしないか。
自覚しないほうが、楽に生きられる。
周りは大変だったりすることもあるが、そんなことをいちいち考えていては、やってられない。
押したり引いたり、みんな協調しながら生きている。
365日、曇りひとつない太陽そのものの人も素晴らしいが、素晴らしい人には素晴らしい人が釣り合う。
100%ホンネで、腹黒の反対で、感情のまま生きている人がふと思い浮かんだ。
母だ。
あれで、思慮深い人なら鬼に金棒なのだが、ホンネ爆発で思慮深い、って逆ベクトルなので、凡人には無理かも知れない。
所詮、わたしは凡人から生まれたので、凡人の枠を出ない。
ではあるが、わたしは凡人礼賛。
いいじゃないの、凡人!

と、話がどんどん修正が効かないほど脱線している。
本当は、書きたいことがあるのだが、いくらなんでもここから、今から書くのは、憚(はばか)られる。
モラハラの具体的中身。
書いて発散しようとしている、、、が、また今度。
しかし、もやもや、している、、、

眠くなる程度の疑問

2020-04-17 | ブログ
同じことを何回も投稿して、アホまる出しだなんだけど、、、
gooで最新記事をアップしても、ブログ村の自分欄の見出しには現れないことがある。
つい最近もそうだった。
他の例で言えば、自分に送信されるメールが重なって一気にドドっと何通も届くような、あんな感じかと。
送った人はまだかまだか、と着信側をせっつき、送信された側は、着信を見過ごしているのかと、なんだかミスを責められれているような気になる。
コンピュータや機械や通信も、常に完璧ではない。
混んでいる時間帯とかの通信状況もあるのかも知れないし。
人でごった返す天神祭の時に携帯電話が繋がらないように、、、。
それは重々わかっているのだが、、、

復旧するまで待ちきれない。
なのでまたまた、同じボヤキをアップする。
「庭」の次にアップした記事「アクセクのんびりしよう」は、ブログ村の溝に落っこちていて、1日後にすくい上げられるのだろう。
gooさんのユーザーサービス機能を利用して、goo御利益はあったが、ブログ村の中では迷子記事になっている。

まあいつものことで、人間にもそういう人は必ずいる。
同じようにしているのに、並列に力もほぼ同じなのに、なにかの間が悪く、表に出ない。
しかも、何度も続く。
拗ねて、やる気をなくす人や、気にせず普通に出直す人や、原因を追求して、こだわる人や努力する人、または全く意に介さない人。

ブログ村や、個人ブログは、、わたしにとっては1000パーセントお遊びなので、別にわたしは構わないが。
しかもブログ村には1円のお金も払っていない。
ありがとうございます、ブログ村さま。
gooには毎月、お金を払っているが、その課金に対しては精神的にも具体的にも何の効果も影響もない。
無料版で良いのだが、有料版を止めるのがめんどくさい。
gooメール使用料としての課金なのだが、メール機能はとっくに廃止されている。
なので、無駄金とも言える。
だが、お賽銭感覚で、身銭を切るというのもなにかしらの意味があるような気がしている。
スーパーのレジ袋も無料だとバンバン貰うくせに、有料となるとピタと貰わない。
それに似ていて、無料にすると有り難みや存在を深く意識しない。
いつも有って当たり前、となる。
むしろ、値段がついているほうが丁寧に扱い価値感が上がることはよくある。

ずっと前に、仕事で奉仕価格でオッケーと引き受けていたら、同業の価格破壊につながるから迷惑だ、やめてほしい、と苦情を言われたことがある。
お安くすればよいというものではない。
その分野で賃金を得て生活の糧にしている人がいるのに、それを考えずに、(仕事が欲しくて過激な値引きをするのはまだ悪い中ではマシの悪さ)、報酬は二の次でただただ仕事がしたくて、、、とボランティア価格でやると嫌われる。
わたしの場合は、自分では気づかない無意識の、気持ち悪い欺瞞に満ちた思い上がりかも知れない。

使う側は、安かろう、悪かろうなのだろうが、場合によっては、あまり高度なことを求められない場合もある。
こんなことに、こんなに高い値段が付くのかと驚いたが、それは、仕事がいつも常時あるわけではないし、貰える時に貰っておかねば、、、という、冬眠前の動物みたいなものかと。
いろんな職業がある。
いろんな賃金の発生の仕方がある。

ちなみに、、、
職業に貴賎はない。
まして、今、問題になっている、社会の基盤となる機能を支えてくれる職業はなおさら。
もっと賃金を上げるべきだ。
が、いろいろ難しいことが横たわる。
しかし、今回のコロナをキッカケに、危険を冒してまで頑張ってくれる職業に対して、こころからレスペクトする。
多くの人々に、わたしたちの安全、安心が守られている。
生産性や生活の質の向上の前に、今まで当たり前と思っていたことに改めて感謝の思いが湧く。
奢っていては、足元から崩れる。
・・・・・

ところで、さきほど、ブログ村のわたし欄は、復旧したようだ。
昨日、アップした記事が、「1日前」の記事として、今しがた現れていた。
本来はアップして間もなく、赤い文字で「NEW」として即座に現れるべきところが、丸1日、ブログ村の溝か隙間に落ちて、今、昨日の記事、「1日前」として、しれっと顔を出した。
わたしの赤文字「NEW」は何処へ?
1日溝の中で寝かされて、その後、新古品のように蘇る記事。

そんなにガタガタ言うほど大した記事でもないのに、全くよく言えたものだ。
わたしは些細な事が気になる文句たれ。
しかし、気になるものは気になる。
つまらない性分である。

眠くなってきた、、、。

アクセクのんびりしよう

2020-04-16 | 日々のこと
さあ、はやく、のんびりしよう!
焦って迫るものがある中、はやく、はやく、急いでのんびりしよう!

無理。
このシチュエーションで、のんびりはできない。
○時○分から○時○分の間の3分間、のんびりしよう!
って、出来る?

3分間、息を止めるのは無理。
3分間、目を閉じるのはオッケー。
ただし、わたしの場合、その後、居眠りにつながる。

のんびりには、適切な時間がある。
○○し始めるまでの時間、のんびりしよう!
と、静動のメリハリがあると、静も動も相乗効果がある。
ずーっと、いつまでかわからない未定期間、のんびりするのは、のんびりとは言わない。
そして、自由を伴ってこその、のんびり。

で、ちびっ子たちがもうじき、やって来る。
父親に連れられ、彼の出勤時途中に、ポイと我が家に投入される。
ああ、、、
保育所。市から休業指令のため、特別枠以外の子供たちは、Stay home!
もとより小学校は早くから休校だし。
ばあちゃん宅に押し寄せてくる、ちびっ子ギャングたち。

はやく、のんびりしなければ、、、
焦ると、なかなか、のんびりできない。
今のうちに出来ることは、のんびりすること!!!そう思うと、益々、のんびり出来ない。
焦る、、、

末孫、女王様Cが、今、一番ややこしい。
今は少しマシになったとはいえ、保育所に迎えにいくと、ばあちゃんの顔を見つけるなり泣く。
こっちが泣きたい。
それまで機嫌が良かったのに、保育士さんから離れようとしないので、保育士さんにかえって気を使われたりする。
というか、まだオシメ年齢なら仕方ない。諦めの境地。
が、彼女が大きくなったら、「あんたは、こんなのだったよ」とネチネチ言ってやろうと根に持つ、大人げない、ばあちゃん。

と、こんなことを書いている間に、刻一刻と、のんびり時間は短縮される。

そもそも、のんびりって、何?
何もしなくていいこと?
手かせ足かせがないこと?
まるっきりの心身自由なこと?
その黄金の自由時間は、状況や天気や時間の長さなどによって、使い方が異なる。
わたしの場合は、ほぼ100%気分による。
ごく稀に、電話やLINE、メール、SNSで、気分優先できないこともある。
しかし、どれも放置しておくという選択肢はある。
が、電話は放置できない。リアルタイムで応答する。
あーでもない、こーでもない、あーだこーだと長電話が意外に楽しかったりする。

ちらと2階に上がる。
娘たちが表現するように、娘たちの元個室は、1室、1室、不要品に侵食され、1日、1日、確実にゴミ屋敷と化している。
でも、カンタン。
その気になれば、全てゴミ。
まず、3分の2は、古紙回収の日に出すべき紙ゴミ。
ダンボール箱2つ分ぐらいは書類保存して、あとは、全て捨てる。
すると、フローリングの床が顔を出し、建築設計プラン当初の広々ライブラリー空間が復活する。
1つ、スッキリすると、徐々にプラスのスパイラルが起こり、他の部屋も不要品を処理できる(はず)。

コロナで世界中の人々の意識や行動が変わったように、わたしの断捨離意識もそれに乗っかって変わるかも?
一気には無理。少しずつ。
先ずは、助走、序章から。
「これは不要品 or not?」と、一つ一つ選別しなくていい、なんの考えもいらない、紙ゴミを処理するだけで、ぱあっと一気に明るくなる、、、のは充分承知の上。
誰でも代わりにできる単純作業。
だが、楽しみは、もっと先に取っておこう。

紙ゴミは、そうやって簡単なのだが、問題は、衣類。
これは、ちょっと、、、複雑怪奇、精神的に意識改革するのに、まだ時間がかかる。
前は、必要なものだけ取り出し、不要品込みで家まるごと処分したという荒治療だったから、わたしの変革にはあまり期待できない。

まあよろしい。
わたしの家なので、誰も文句を言う筋合いはない。
子供たちは、こういう親だと、反面教師もいいところなので、ほぼミニマリストに近い。
モノのない贅沢を存分に味わっているようだ。
よかったねー。

わたしは、モノに占拠されてはいるが、束縛されない自由時間を楽しんでいる。
て、期限付き。
のんびり時間が、減ってきた。
ちびっ子たちの足音がする前に、はやくのんびりしなければ、、、
アクセクのんびり、しなければ、、、

2020-04-15 | 無題
最近、ほんの少し、アクセス数が増えてくると、増えた人数も含めて、多くの人に共感を持ってもらおうとする、凡人で俗人のわたしの浅ましい魂胆が生まれる。

前は、本来の、誰に向けるでもない叫び(というよりは、ほざき?)を感じるままに発していた。
今はすこし、かしこまっている。
国会にTシャツで行く勇気もなければ、仮に敢行しても、居心地も良くない。
とか言いながら、大して変わってないと思う。
しかも行き先は国会ではなく、父母参観会か、自治会ご近所さん集会ぐらいかと。
自分が歳を取り、まるくなっただけかも知れない。

毎日、気分次第で好きなことをしていると、やるべきことが、今日もできなかった。
明日でいいかー、と、毎日、順延。
いったいいつになったらやるのだろう。
明日こそは、明日こそは、と毎日思っているのだが、自由まったり自主性が崖っぷちの悲惨な叫びに転じた頃に、ようやく着手するだろう。
まだまだあと一週間ぐらいは大丈夫だと踏んでいる。
この甘読みがある限り、あと二週間ぐらいは手をつけないような予感、、、

で、それはそうと、ブログをまたしつこくもう一本書こうかどうか、一瞬迷ったが、、、
庭仕事をした。
これは建設的な仕事とは言えない。
何故なら、舅(故人)は、現役で働いている時は休日に、リタイア後は、毎日毎日、食事以外の時間は黙々と一日中庭仕事をしていたが、舅がいなくなってから誰もする人はいなくなった。
妻(姑)も息子(夫)もなんの関心も示さなかった。
しばらくして芝生は剥がされ、姑の好きなお花畑になった。
やがて、姑は家を離れ、留守宅ではお花も世話をすることもなくなり、どうなるのやら、、、。
舅がかつて植えた水仙は手を加えなくても毎年、すきっとした花を咲かせる。
相変わらず、息子(夫)はなんの関心も示さない。
舅があんなに一生懸命、取り組んでいたのは、なんだったのだろう?
横道に逸れず気持ちよく働いてくれ、お金を稼ぎ、暮らしてくれたらそれで良かったのだろう。
趣味は自分のためにあるもので、周りの人にとっては、趣味が及ぼす本人への活力チャージ効果には応援するが、その趣味そのものにはなんの関心もない。
一生懸命さには賛同するが、対象物に関しては、こころ、魂は全然受け継がれていない。
夫は、草のひとつも引いたことがない。
庭を見ることも、知ろうともしない。
ただ、存在を知っているだけで、中身に触れようともしない。
わたしたちが住んでいる我が家の空きスペース(別名、庭)に雑草の苦情が出ようものなら、大量の除草剤を買ってきて、そこらじゅうドバドバ散布する。

わたしの実家も然り。
両親が熱心に力と愛情を注いで、先代が作った庭を広げ維持した。
仕事が始まる前のやたら早朝に出向き、時間を見つけては精を出していた。
まさに寝る間も惜しんで。
相当の時間と労力と資源とお金を費やした。
庭づくりは、建設的ではないが(プロ庭師の仕事や名庭は別として)、我を忘れて没頭し、喜びを得て、自分の職業である仕事に向けてこころの糧にするのは結構なことだ。

しかし、余裕がないと出来ない。
庭師よりうんと高い収入なら?
庭師と、どっこいどっこいなら?
庭師以下なら?
庭師どころではなく、うんと下なら?

庭師への賃金も、庭の維持も結構な費用がかかるので、それよりかなり上を稼ぐのは、なかなか大変だ。
だから、贅沢な趣味ということになる。
いつも思うが、わたしが具体例として出す、こういう発想は、どうも日頃あくせく汗を流していないのがバレバレだ。
安倍晋三さんの、Stay home!動画メッセージが、自宅でくつろぐ様子がやたら優雅でひんしゅくを買うように。
まあ、人には人の背景がある。
わたしは、首相ではないので、たとえリッチであろうが貧しい生活をしていようが、アホであろうがカシコであろうが、この際、関係ない。

話を戻す。
庭仕事が、単なる庭の草引きや、芝生刈りなら問題はないが。
どういう規模のものかによる。
昔の金持ちのステイタスで、他の人が持つのは良いが実際には最も要らないのは、別荘と妾だとか。
軽井沢の別荘は、高齢化した持ち主が今は売ろうにも買い手が無いそうだ。

舅や父は、庭が好きだった。
庭の規模に関わらず、昔の男性の特徴か?
テレビ番組「ぽつんと一軒家」に出てくる人々は、山と溶け合った暮らしをしているが、そういうのが夢だという人もいるようだ。
今はガーデニングは女性の趣味のようなイメージがある。
もちろん、花づくりや、庭づくりに熱心な男性もいる。
薔薇づくりは難しいらしい。

話が逸れている、、、。

趣味って、建設的でなくてもいいと、ふと思った。
趣味に没頭して存分に発散、燃焼することがよい。 
へんにエネルギーを持て余して悪い道に逸れなければそれでよし。
趣味そのものの完成度は問わない。
生産性のないスマホゲームもそう。

人の趣味にケチをつける気はさらさらないが、ちなみに、わたしは、ギャンブルが嫌いだ。
だからといってギャンブルをする人を否定したくない。人には人の道。
なので、ギャンブルする人を自分から遠ざける。
すると、目に入らないから、お互い干渉しなくてよい。
距離を取る。
今のところ、ギャンブルする人は周りにはいない。
ちょっと離れたところにいる、ある人は、ギャンブル好きだが、月決めお小遣いの範囲内だったらしい。

それと暴力を振るう人も周りにはいない。
以前はそんな人ではなかったのに、何かのキッカケで 振るうような人もいるだろう。
偶然なのかも知れないが、暴力と縁がなく、しあわせである。
誰だって暴力など振るいたくないだろうが、不幸な事が重なって爆発する。
不幸なことだ。
認知症の症状のひとつに、暴力もあるらしい。

自分の生活がこじんまりしているため、あまり危険にはさらされない。
ローリスク、ローリターン。
一歩間違えれば、不幸になるリスクは、世間一般の皆さんと同じ率で持っている。
自分ではどうしようもない災害、事故、病気、、、などだ。

自分で決めたもの、道には、ギャンブルや暴力はつきまとわなかった。
夫がギャンブル狂だとかDVだとかも、配偶者候補の人選から漏れてくれて良かった。

庭仕事が好きだとか、今時、そんな男性はなかなかいない。
わたしの親世代だろう。
時代の背景もある。
そう言えば、知人で園芸が趣味のリタイアしたシニア男性がいる。
園芸仕事に追われて疲れると、こぼしていた。
季節や天気に振り回され、体力がいる。

人に任せると、お金がいる。
庭の規模により、かなりの額になることもある。
美しいものを汗を流さず楽しもうというのはムシが良い。
なので、庭は、人様が手入れした、神社や公園の四季折々の自然美を堪能するのがいいなあと思う次第である。

戦後育ち、昭和世代のわたしは、舅や両親のようなガッツはないなあ、、、
たいしたこともしないので、行動を起こす活力源、エネルギーとなるものも知れている。
エネルギー蓄積のための逆噴射的な情熱を注ぐ趣味は必要ないようだ。
わたしは省エネ動物かと。
ただ、親世代が頑張って来た姿を目の当たりにして、親の成果を享受し、ギリギリ持ち堪えたものの、それを次代には継承出来ない不甲斐なさ、もどかしさはある。
右肩上がりの高度成長は、明らかに停滞し、上がりようがない。
次の向上の仕方は、なにも上がることではないのかも知れない。
維持すること?
維持も出来ないとなると、別のかたちに変えるか、または、リセットすることか。
次世代に負の遺産を残さないことか。
情けなく寂しく辛いが、それをしないと次世代が困る。
隆盛や衰退の、そういう線グラフの下降ボトム辺りに自分が置かれているようだ。
さらに下がることも考えられるが、損切りの英断も必要な時がある。

どっちみち、ふんわり風まかせ。
時代の風が吹く方を見ることになる。
資源は無限ではない地球の舵取りと似ている?





ちびっ子たち

2020-04-14 | 日々のこと
市からの指令により、ついに保育所から通告があった。
子供たちを自宅でみてください、と。
ただし、医療従事者、消防士など、市民の生活機能を維持する職業の人は免除。あとは、一人親の家庭とかも。
その他にも、特別事情(仕事面で外せない重要で複雑なからみがある場合)、保育所に相談してください、との園長直筆の張り紙。
娘から張り紙の写真がLINEで送られてきた。

大変だ。
保育所は、わけのわからない、半分動物のような、半獣人のような、人間発展途上の、人間の原石ばかりがゴロゴロ。
この原石は皆とても美しいのだが、理性が今、まさに発達段階途中で、本能と感情オンリーなので厄介である。
賢いワンちゃんやチンパンジーの方が、だいぶん、お利口だったりする。

わたしの孫で言えば、孫C。
上2人が男の子、待ちに待った女の子。
今のところは末っ子で女王様だが、その地位を脅かされる日は来ないとは断言できない。
この女王様Cは、やたらとうるさい。
脳の発達、特に言語機能は目覚ましものがある、、、のだが、言葉に特化しているようにも思う。
口は立つが、他が、、、。
わたしも、そうかも。
頭ではわかるが、身体や指が石のように動かない。
超超超スローモーション。
だが、女王様Cは、スローモーションではない。

認識能力、記憶力、理屈は、バッチリ。
「これは、○○先生。それは、△△先生。あれは××先生」
小さな写真を指差して、数多くいる保育所の先生の顔と正確な名前を挙げ一致させて言い当てる。
この能力で、なぜ彼女はオムツなのか?
きっとこの上なく快適なのだろう。
パンパースやムーニーマンなど、数々の紙オムツを改良して製品化して世に出すオムツメーカーに表彰状を差し上げたい。

というわけで、オムツの女王様C。
関西弁も標準語も、主語、述語、形容詞、擬態語、全て完璧。
動詞の時制の一致や語尾変化もバッチリ。
タイミングも使い方も完璧。
あとは、オムツ、、、。
オツムと、オムツ。

言語は、ただ奇声を発したり思いついたことを言うだけにとどまらない。
状況説明やら、欲求やら、自分の気持ちを言葉で表す。
女王様Cは、最近、これに音色と音量を加えた。
そしてこれは、最大の武器となっている。
自分の欲求を伝えるのみではなく、叶えるために、周りに被害を与えるような不快な音質の声を出す。
キーキー甲高い機械音。更にボリュームが半端ない。
それがまた長時間続くと、耐久戦となる。
ご近所さんは、さぞかしうるさいだろう。
実力行使で思いを遂げようとする時は、声だけでなく、手足や身体全体を使って、相手の行動を妨げようとする。
大人にもこんな人、いる。
テレビのニュースで見かけたりする。

会話もAIのようだ。
父親が帰って来ると、「どこ行ってたの?会社?」「何、持ってるの?」
これはまあいい。
うちにある幼児用ジャングルジムによじ登り、
「パパ、助けて」「(わたしを)下ろすの手伝って」「下に階段がないから降りられないの」
などと、聞かれもしないのに一人で説明したりしている。
オムツの女王様C。
実は彼女、歩くのもまた遅かった。
「これ以上遅かったら、もう一度、受診してください」と小児科医に言われたギリギリの期日まで歩かなかった。
足は結構大きなサイズ。
もったいつけている?

このオムツ女王様C、実は、母親であるわたしの長女によく似ている。
生まれた時からそんな予感がしていた。
身体は赤ちゃんだが、頭の中は、柔らかいふんわりしたグニャグニャしたものではなく、真っ直ぐピンと突き抜けた電線のようなもので成り立っている。
回り道なし。
言い出したら聞かない。
手下を使う、半径数メートル(後に距離は伸びる)の女王様。
長女とよく似ているが、きょうだい構成が違うとは言え、上に、言うことを聞いてくれる男の子2人がいると、益々女王様になる。
女王様はいいから、はやくオムツ、卒業してね、3歳までに。
もう早々と老後の先取りオムツは早すぎる。

話は変わるが、、、
それにしても、静かでお天気が良い。
ゴミ回収車が、「外出は控えましょう」とアナウンスを流しながら走っている。
意図はわかるが、ちょっとうるさい。
何もない平穏な日々に感謝しながら、コロナ終息を待つのみ。
明日からちびっ子が各家庭に溢れ、ドタバタ悲鳴が聞こえそうだ。
巷ではコロナ離婚やDVも起きているらしい。
小さな部屋で息づかいどころか、ぎゃあぎゃあわあわあ、出口なく暴れられると、大人も子供もおかしくなる。
外に出るなと言われても、子供を開放された空間で遊ばせるのは必要だ。
外で3密ではない遊ばせ方で工夫するしかない。
小さな子供のいない世帯は、自分の不自由さを嘆くだけかも知れなくて、まるでピンと来ないだろうが、子育て現場は大変である。
子供が大きいと、また大変なんだろうけれど。
さらに、子供でなく、大人でも家庭内3密は大変。
働きに出なければならない人も大変。
人間がいるところは、やはりどこでも大変なのだ。

さてさて、、、
今日も〆られないで困っている。
いつまでも着地できない。
またまた家の外にアナウンスが流れている。 
市からの呼びかけか?
が、最初のピンピンポンポーンだけで、何を言っているのか聞こえない。
はっきりしないで、いつまでも終わらない、蝶ブログのようだ。



コピーされたもう一人の自分

2020-04-13 | 暮らし
皆さんのエッセイ・ブログ、、、素晴らしい。
読後感想は、脱帽したり、あら、今日はそうでもなかったわね、、、だったり。
そこへ混じって(どなたかが引っ張り出して来られた)自分の過去のランダム記事を読む。
いやー、まあ、面白い。(超絶ツマラナイ、しょうもない、くだらない時も多々あるが)
自分の心情にぴったりではないか。
当たり前、自分が書いているんだから。
それを栄養にしているわたしは、自分の足を食べているイカのかんじ?
イカの足を食べるイカ。
最後は、どうなるのだろう?
ポケットが裏返るみたいになるのだろうか?
(実際のポケットには、小さい埃、溜まったゴミ片、丸めたティッシュペーパーぐらいしか出てこない)

ちなみに、
昨夜、21時からのNHK番組。
情報社会最先端、自分のスマホ情報で自分のコピーが作り上げられる話。
情報を流せば流すだけ、本物の自分により近いコピーが出来る。
つまり、他人に知られるということ。
顔、住まい、身体、年齢、年収、心情、欲求、行動、趣味、買い物、関心事、病歴、交友、、、、
ありとあらゆるものがデータ蓄積と分析、解析によって、本人があぶり出される。
これは国家が個人情報を把握して国家権力を行使するのに一役買う重要な側面となる。
googleをはじめとするGAFA(ガーファ)って世界制覇できるんじゃないかと本当に脅威を感じたりする。

スマホを持たないようにしたとしても、ブログだけが唯一お友達という、わたしのような真性純正引きこもり人間だと、長年にわたるブログ分析で即、わたし個人などイチコロに割り出されると思う。
チョロいものだ。
精神的なものに関しては、自分より自分を追求して書いている。
(書いている時は集中して情熱を注いでいるが、書いた後は、何を書いたかも忘れている、、、あぁ、、、)
ただ、わたしごとき小者を分析してもなんの足しにも役にも立たない。
治験のように、無作為抽出の実験台の一人として、たまたまピックアップされるのなら、わからないでもないが。
でもそれも嫌。

スマホは、パソコンにはないリアル位置情報が追加される。
支払い情報も。
何時にどこへ行ったか交通手段もわかる?
(アプリか何かで設定できるのかどうか知らないが。
調べてから書けよ、と身体を共有する双子コピーの私からノイズ)
店舗、現場で支払う電子マネーや接触型ICチップ交通料金&その他支払多機能カード?も。
従来のクレジットカードも追加すれば、本人情報には、鬼に金棒。
電気ガス光熱費をはじめ、衣食住、医療、通信、ほとんど足跡、履歴を辿ることが出来る。
全ての行動を把握される。
つまり、監視できるということだ。
年金、医療、納税は、本人に通信手段があってもなくても把握される。
寄付も。これは課税の対象外。

逆に、現金で払うことって、どんなものだろう?
わたしの場合、個人経営者に渡すレッスン費、趣味関係パーティ券、クレジットカードが使えない飲食店や、物販、食料品店、個人経営医院の医療費、、、ぐらいかなあと。

最近、やっとクレジットカードが使えるようになった大手ドラッグチェーンストア、○イコク。
ヘビーユーザーのわたしは、これには大喜びしている。
どうしても現金のみ、という頑固なスーパー(○ンダイ)もあり、足が遠のく。

現金自体、銀行には預けているが手元にないため、出金するのが嫌なわたし。
現金で給料をもらっていた時期もあったが、今は全て振込。
現金の顔を見ないので、重さ、多さ、高額低額、厚さ薄さなどの量を実感しづらい。
ずしっ。ぺらっ。
ゼロが、一つ多かったり少なかったりしても、あまり実感的には変わらない。
財布の中に紙幣や硬貨が入っていると、量が物理的に身をもってわかるのだが。

現金で支払うとアシが付かない。
払う側も受け取る側も、領収書が無いと実証できない。
領収書自体をお互いに了解の上に書き換えることも世の中にはある。
まして、電子や金融システムを経由していない。
情報はアナログ。
このお金、日本国中ではかなりの額になるだろう。
政府は表に出ないお金の発見に躍起になっているようだが、しっかり地中に埋めて離さない人も少なからずいる(はず)。
とは言っても、棺桶に入れるのは、紙に印刷された六文銭。
リアル硬貨はだめだ。灰にならないから。
しかし、(仮に「紙幣を入れて焼いてね」と遺言を残した場合)個人の遺志を尊重して、リアル紙幣を入れて焼く遺族は、どれぐらいいる?

と、話はどんどん関係ない方向に進み、もはや戻って来れない感がある。
お〜い。
賢いワンちゃんでもいれば、「戻っておいで」と呼びに来てくれるのだろうけれど。
ワンちゃんの代わりに幼い孫でも良いが、今時の孫は、手強いから思い通りにはならない。

と、またまた話は逸れまくり。
いつまで経っても着地点が見えず。
趣旨から外れて関係ないことに次から次へと数珠つなぎは、わたしの悪い傾向である。
これは、最初から結論はなく、書きながら考えているからなのだが、いつまでもグルグル、滑走路の上空を飛び回り続けていることが多い。
これが本当に飛行機なら燃料切れとなり、大惨事になる前にどうにかしなければならない。

ちょっと3杯目のコーヒーを飲んで、ブレイクタイムといたします。




思いは行ったり来たり、楽しい想像

2020-04-11 | 思い出
Stay home!
は、homestayとはちょっと違う。
大いに違う。

大阪府の吉村知事の強い訴えにより、今、わたしは自宅軟禁されている。
あの美しいキラキラした目で呼びかけられると、(やや疲弊色あり)、自宅に留まらないわけにはいかない。

「大阪府は莫大な借金を抱えていて、橋下さんと松井さんと僕(吉村さん)で、少しずつ返しているところ」で、東京都のように、お金がないそうだ。
医療も補償もお金がたっぷりあってこそ出来ること。

「ですから、今は、何よりも、皆さんが出来ることは、自宅にいることです!」
難しく説明をし始めるとどうも吉村知事の口はモタモタする、か、あるいは「早口・事務的上滑り棒読み」になるとわたしは感じる。
美しい人は、口は立たないのが常。
顔だけでアピールできるから。
「顔で当選したんじゃないの?」と、娘の趣味悪ジョーク。
若く美しいと、余計なパンチをくらうようだ。

でもまあ、複雑な事情説明は専門家に任せ、若く美しいリーダーは、切に府民に心情論で訴える。

お金ないから仕方ないやん。
せめて、バタバタせずに被害を最小限にとどめてね。
という、無い袖は振れない論。
補償とセットに出来ない要請、苦しそうだが、それが現実だから。

というわけで、吉村さんに訴えられる前から自宅にいる、わたし。
長期入院のよう。
ところで、白浜アドベンチャーワールド生まれのシロクマ、神経をやられていた。
狭い檻の中で、行ったり来たりを病的に繰り返す。
かわいそう。
と同情しつつ、自分たちは動物園を楽しんでいるではないか。
かわいそうならビーフステーキを食べるな。
卵だってそうだ。
ふわふわスポンジケーキなどスィーツも。
じゃあ植物は良いのか?
キリがない。

地球を支配している者、人間の勝ちか。
忘れた頃に、自然災害などで猛威を振るい、神羅万象、全てのことには人間の力では及ばないことを見せつける。

話を戻す。
自宅療養中。ではあるが、病気ではないだけありがたい。
しかしながら、病気なら心身ともに弱っているから、自宅に監禁されても、さほどエネルギーは爆発しないだろう。
心身ともに健康なだけに、出口をふさがれると、詰まった煙突君が目を白黒させ真っ赤になるように、苦しい。
が、期間限定。頑張るしかない。

日頃、さぼっている掃除や片付け、やり始めると、残りの人生を全て使っても追いつかない。
もし、やり遂げてしまったとしたら、オー・ヘンリーの「最後の一葉」に見られるような、生きる活力の元を見失うかも知れない。→大げさ。
なので全部しない。タスクは残しておく。
とか言いながら、0.1パーセントのタスクも処理していない。
いつまでも死ねない。
というか、生きている間に、もっとこころの重みを軽減したほうが、爽やかになるだろうに。
生まれつきのナマケモノ気質は、コロナより強いようだ。

だが、あまりにも退屈で、掃除をした。ただし、ちょっとだけ。
ピカピカとは程遠い。
片付けものをした。ただし、冷蔵庫に貼り付けてある何年も前のメモ用紙を整理し、マグネットの位置を変えただけ。
きっと家族の誰も気づかないだろう。
だが、わたしのスッキリ度はスゴイ。
こんな小さなことで、こんなにスッキリするなら、、、と大断捨離を試みたりはしない。
菌とともに自分もろとも死んでしまう。
わたしは雑菌と共生共存している。
菌もわたしの一部なので、切り離せない。
(コロナ菌は遠慮、辞退するが)

毛布を洗濯してみたり、日頃しないことをゴソゴソやっている。
しかし、各人、住宅事情もあるだろう。

ちなみに、マイホームを買った頃、初めて実家の両親が遠路遥々、訪れた時。
父は家の中に入らず、敷地内の家の周り(外)をぐるりと一周しただけ。足で調査か?
母は、「なんと狭いダイニングキッチン!」と驚いていた。
さらに、当時、幼稚園年長さんの長女が伊賀忍者のように、廊下の壁と壁の間に両手両足を広げ、天井近くまでよじ登っているのを見て驚愕していた。
確かに、、、あれは、すごい。

そして、購入時は中古だったが、建て替えた時。
建築費を聞いて舅は、なんと高い!とびっくりしていた。
舅は市街地に一戸建て住宅やマンションを買ったり、実家の古い日本家屋を何度も修繕やリフォームしたり、その一角に新築住宅を建てたりと、家計をやりくりしながら、家をさわることが好きだった。
と言っても、独断で家族には相談無しだったようだが。
手堅い人だったので、同時に複数所有するのではなく、田舎から離れた文教地区に、最初は(たぶん)ローンで小さな一戸建て住宅を買い、それを売ったお金で次に住むマンションを買い、更にマンションを売ったお金で最後に住む終の棲家となる(といっても代々その地)実家の一部を新築したり、と、教育と仕事の両立を考えた地での住居を替えて行った。

なにしろ舅は、建て直した我が家が気になり、訪問日はまだかまだかと矢の催促。
荷物を入れて間もない(まだ荷解きされていないダンボールが山積み状態の)時に、舅姑は見学に来た。
今、思えば、舅は自分の残り時間が限られていたからだ。
訪問の半年ぐらい後に他界した。

で、残した一言。
「高いなあ」
姑の一言は、何言もあった。
トイレの色など、自分の年齢から見た健康に留意したマイナスの感想。
自分ならどうか、という目線。
二世帯住宅ではないので、そんな感想は胸の中だけで結構だ。

わたしの父は新築時はもうこの世にいなかったから感想は聞けず。
母は、どうだったか、、、?
あ、一つ、覚えているコメントがある。
ゴミ箱がプラスチック製の実用的な味気ないものだったのだが、それを見て、テイストに合ってないと指摘された。
確かに。
母は、インテリア空間と掃除に煩い。
一緒に家具工場に見学に行き、別注品オーダーをしたり、躊躇しているわたしの背中を押してくれた。
しかし、色々もっと大きな捉え方や感想もあるだろうに、また、なにそれ?とゴミ箱ピンポイント指摘で、転けそうだった。

新築するにあたって、住宅展示場のモデルハウスを色々見学した。
その中で、自分が将来、歳を取ったらこういう間取りがいいなあ、と思うものがあった。
設計時にはあまり老後を意識しなかったが、今、ぐるりと室内を見てみると、自分の理想の老後空間かも知れない、と感じた。
ただし、あと、20年後。
わたしの理想の老後は、20年ぐらい先にならないと訪れないという予感がする。
その頃は、自分の健康が気になって気になって、関心事は、それしかなさそうだ。
完全な健康オタクになりそう。
20年経つと今より衰えるのは必至で、健康が増進するわけがないので、20年後の自分を夢見るのもおかしな話だ。
でも、友人もいないし非社交家なのにもかかわらず、なんとなく、ぼわんとした、楽しい老後を思い描いているから不思議。

20年後にはコロナが終息していると多分思う。
(なんと悲観的な。もっと早く終息しているだろう)
有効ワクチンさえ出来れば怖くないわけで。
そんなに遠い日ではない。

今のまま友達もいない20年後は、コロナを気にせず雀卓を囲みたいなあ、と。
近所に麻雀する人いないか、今から探そう。
いや、対面しなくても、オンラインで繋がる麻雀でいい。
手元の麻雀牌だけ映して、ノーメイク、パジャマで髪もボサボサでも良いのが希望するところ。
それなら今でも出来ると思うが、楽しみはもっと後にお取り置きしよう。

と、話は逸れに逸れて。
楽しい自己満足の時間となりました。



考えがまとまらない、すっきりしない日もある

2020-04-10 | 無題
自分の失敗エピソード。
恐ろしくたくさんある。
おそらくコロナ自粛引きこもり期間を全て費やしても、書ききれないだろう。
自分に嫌気がさすだけ。
読み手側には、ぷぷっ、アホなひと!(嘲笑)と、半分、気の毒(同情)、半分、自分はそうでない(優越感)、半分、自分もそうだ(安堵)、という思いがよぎることだろう。

わたしは、自分の赤恥を晒して、何か良いことがあるか?
最近、立て続けにピエロをテーマにした映画が上映されたが、ピエロは実は悪のシンボルだとか。
悪の権化=ピエロ=わたし  かも知れない。
わたしの場合は、反社会的要素がないので、よほどの不幸がメガトン級に重ならないと、悪に染まる機会はかなり稀である。
そして、何度も書いているが、生理的に、優等生に憧れ、荒んだ人は距離を置く。


尺度や見方を変えると、ほんの一部を除いて、評価はごろっと変わる。
善悪基準まで変わることもある。
歴史は後に、生きている人が作り変えたという説もある。
自分から見るか、相手から見るかで180度、違う。
占領や侵略を、統治や指導、開拓などというポジティブな言葉に置き換えることもある。

うんと昔の貴族、ちょっと昔の専業主婦、社会的には汗を流して働かない。
不労所得という言葉は最近はメジャーな扱いを受けているが、早い話、働かないでお金を儲けるということ。
(一個人の感想としては)あんまり大きな顔は出来ないと思うのだが、「いや、頭を使って経済を回しているのだ」と、自己肯定を通り越して自己絶賛する場合もある。

フランスの記事が、ネット配信の東○経済新○社に載っていた。
もちろん、コロナがらみ。
フランスが一番、コロナで激変したとか。
国民の意識が変わったらしい。

フランスはフランス革命など、斬新、強硬な動きがあった国。
世界のあちこちを植民地にしたりして、他のヨーロッパの列国と同様に、力があった。
と、学校の歴史の時間に習った。

時系列でいうと、ヨーロッパは古き良き時代で、新勢力としてアメリカが台頭。
戦後復興でクタクタになった日本人は、1950年代?アメリカのホームドラマで見る、大きな冷蔵庫や、家事をする優しいパパに憧れた。
ヨーロッパ仕様のホテルより、アメリカ系列のホテルのほうが、ピカピカ。
欧州の重厚な伝統ある歴史的建造物は趣きあって良いが、シャワーの水がスイスイ出るほうがありがたい。
そこにまた中国。
4000年だか何千年だかのすごい歴史と人口と広大な国土。
ちょっと一定期間を置いて、復活。
わたしの中国イメージは、人民服と毛沢東とパンダ。
昭和ずぶずぶ世代だから。
日本に普通に暮らすわたしにとっては、人民服時代とは大きく激変する中国の威勢を日頃の肌感覚で感じる。
お国事情や政治がらみで、一般の人々が知らないこともたくさんあるので、憶測するしかないが。

で、話を元に戻す。
なんの知識も考えもない田舎の少女がそのまま歳をとって老人になろうとしているわたしだが、、、
東○経済新○社のスマホ4ページにわたるフランス記事を読んで、の感想。
ちなみに、東○経済新○社は誇張表現や記者の偏向志向がある記事を何度か読んだことがあり、あまり頭から信用していないが、それはないやろー、と突っ込むには適材であることもある。

で、また別のコロナではない記事。
フランスは一旦、結婚制度を否定して、カオス経験の後、新しく一から構築した経緯があり、結婚に対してリアリストだそうだ。
ちょっとフランス革命っぽい。
日本人女性の結婚にこだわる意識が理解できないというフランス人女性の話が紹介されていた。
というか、記事の著者自体がフランス人女性なので、自分の体験を通して見た考えなのだが。
手がかかる子育て期であっても社会で働かない女性、
稼ぎの良い夫がいて経済的になんの不自由もしない女性、
そういう女性たちが働かないのは、社会的には冷たい目で見られているとか。
働くのはお金のためだけではない、ということ。
もちろん、経済的にゆとりがあるなら出来れば働きたくない女性もいるだろうが、なにしろ著者は自分目線、自分を基準にしている。
資産家や、富裕層ならわかるが、手のかかる子育て真っ盛りの女性まで、子育てに集中するあまり、家庭に留まり働かないのは、いかがなるものかと言っている。
(多分、著者本人は、子育て真っ最中なのだろうと想像する)
フランスは、社会の子育てフォローが日本より先に行って、整備されているのだろう。
社会で働くということは、「生きる」に等しいのかと想像する。
リタイア後は年金システムが整っているとすると、フランスの財源てスゴイなあと。
よく知らないが。
働いている現役世代は、税金が高いのかなあと。(これまた想像)
税金はリタイア後の自分を養うための年金プール金のためか。
(日本もそうだが、納めた税金を今の年金受給者に回し、いざ自分たちが年金をもらう順番になると、年金システムが破綻していないとも限らない)

各国のシステム、政治経済、歴史、色々あって少しずつ違うのだろう。
無知識の素人があーだこーだ言っても始まらない。
日本は島国だといっても、インターネットの普及や海外からの労働力に頼る、人、モノ、情報は、ひと昔前とは隔世の感がある。
が、やはり、島国であることには変わりない。
しかも極東に位置する。(極東の感覚は、かなり昭和ずぶずぶ世代)
陸続きで各国が繋がっている大陸とは、やはり事情が違うと感じる。
隣国からの人やモノの大きな流れはせき止められないが、情報は物理や地理を超え、しかもリアルタイムでシェアする。

あちこちで散散、目にし、耳にする、なんの変哲もないごく普通のことを、わざわざ自分のブログに書くことでもないのだが、考えを整理するために書いている。
自分事情。

働かなくてよい境遇の女性が仕事をしなくて済むから働かないのは特権ではなく、厄介者扱いされるという著者の記事。
専業主婦がまわりにたくさんいた昭和前半ずぶずぶ世代にとって、これはなかなか面白いと感じる。
過酷な仕事やストレスから逃げ家庭に避難している、自発的に選択してポジティブにそうしていても、見る視点を変えると、仕事不適合者。
経済的には恵まれていても、能力的には弱者ということになるのか。
ものの基準は、どの方面から見るかによって全く違ってくる。
時代の風潮もある。
たぶん、著者が言いたいのはそんなことではないと思う。
もう一度、読み直してこよう。

緊急事態では生活を維持する職種、分野以外は、なんと弱々しく感じることか。
だが、国の財政を支える主幹産業は、何か。
一般人があまり密接に関わっていないものもある。
自分の肌感覚だけを頼りにしていると、恥ずかしい思いをすることがある。

世界中、一斉に同時コロナ緊急事態、各国の特徴が浮き彫りにされる。


追記。
今日のブログ。
自分に向けた自問自答のぬるい記事。
自己チュー・ブログで皆さんの時間泥棒しました。
一般論は、やはり専門家の解説や、ニュース、データで、読み込んでください。

あ、いやいや、長文解読スキップ練習にはなったはず。
さあ、ここまで流し読みされた方!
ここで、終わりです。
タイトルだけクリックのみのご参加、ありがとうございます。