枕草子 第六十三段 草は菖蒲
草は、
菖蒲。
菰。
葵、いとをかし。神代よりして、さる挿頭となりけむ。いみじうめでたし。もののさまも、いとをかし。
(以下割愛)
草は、
菖蒲。菰。
葵、神代の昔から、そうした挿頭(カザシ・髪や冠に挿すもの)となったということが、とてもすばらしいことです。葉の形そのものも、とても趣があります。
沢瀉(オモダカ)は、面高というように名前が可笑しいのです。顔を高く上げて思いあがっているのだろうと思われるからです。
三稜草(ミクリ・沼地に生え簾の材料となる)。ひるむしろ。苔。雪間の若草。こだに。
かたばみ、これは綾織物の紋様として使われたりしていて、他のものより趣があります。
あやふ草(特定のものではなく、根なし草の類いか)は、崖っぷちに生えるらしいのですが、「危うい」というその名の通り、なるほど危なっかしいことです。
いつまで草(壁に生えるものらしいが未詳)は、これもまたはかない感じでかわいそうです。崖っぷちの草よりも、もっと崩れやすいことでしょう。しかし、しっかりとした漆喰塗などには、とても生えることが出来ないだろうと思われるのが、物足りません。
事なし草(未詳)は、願い事を叶えてくれるのかと思うと、可笑しくなります。
しのぶ草(軒などに生える羊歯植物)は、とてもしみじみした感じがします。
道芝は、とてもおもしろい。茅花(ツバナ・ちがや)もおもしろい。
蓬は、たいへんおもしろい。
山菅。日陰。山藍。浜木綿。葛。笹。あをつづら。なずな。苗。
浅茅は、とてもおもしろい。
蓮は、他のどんな草より格別にすばらしい。「妙法蓮華」と法華経で衆生済度にたとえられ、花は仏に奉り、実は数珠の玉に貰いて、阿弥陀仏を祈念して極楽往生を遂げる縁とするものなのですから。
また他の花が咲かない真夏の頃に、緑色の池の水に紅に咲いているのも本当にすばらしい。
蓮は「翠翁紅」とも漢詩に作られているのですよ。
唐葵(立ち葵)は、日の光の移るのに従って花が傾くというのは、草木ともいえない分別のある心を持っています。
さしも草。八重葎。
つきぐさは、染めた色があせやすいというのが、どうも情けないことです。
御存じ「何々は・・」の章段の一つですが、実に多くの種類が述べられています。
もちろん、現代の私たちの生活の周囲には、園芸店や植物園などへ行けば、はるかに多い種類の「草」を見ることが出来るのでしょうが、生活との密着度においてはとても平安の人々に及ばないような気がします。
本段でも感じるのですが、草や木について語る少納言さまは、とても生き生きとしているように思われるのです。
草は、
菖蒲。
菰。
葵、いとをかし。神代よりして、さる挿頭となりけむ。いみじうめでたし。もののさまも、いとをかし。
(以下割愛)
草は、
菖蒲。菰。
葵、神代の昔から、そうした挿頭(カザシ・髪や冠に挿すもの)となったということが、とてもすばらしいことです。葉の形そのものも、とても趣があります。
沢瀉(オモダカ)は、面高というように名前が可笑しいのです。顔を高く上げて思いあがっているのだろうと思われるからです。
三稜草(ミクリ・沼地に生え簾の材料となる)。ひるむしろ。苔。雪間の若草。こだに。
かたばみ、これは綾織物の紋様として使われたりしていて、他のものより趣があります。
あやふ草(特定のものではなく、根なし草の類いか)は、崖っぷちに生えるらしいのですが、「危うい」というその名の通り、なるほど危なっかしいことです。
いつまで草(壁に生えるものらしいが未詳)は、これもまたはかない感じでかわいそうです。崖っぷちの草よりも、もっと崩れやすいことでしょう。しかし、しっかりとした漆喰塗などには、とても生えることが出来ないだろうと思われるのが、物足りません。
事なし草(未詳)は、願い事を叶えてくれるのかと思うと、可笑しくなります。
しのぶ草(軒などに生える羊歯植物)は、とてもしみじみした感じがします。
道芝は、とてもおもしろい。茅花(ツバナ・ちがや)もおもしろい。
蓬は、たいへんおもしろい。
山菅。日陰。山藍。浜木綿。葛。笹。あをつづら。なずな。苗。
浅茅は、とてもおもしろい。
蓮は、他のどんな草より格別にすばらしい。「妙法蓮華」と法華経で衆生済度にたとえられ、花は仏に奉り、実は数珠の玉に貰いて、阿弥陀仏を祈念して極楽往生を遂げる縁とするものなのですから。
また他の花が咲かない真夏の頃に、緑色の池の水に紅に咲いているのも本当にすばらしい。
蓮は「翠翁紅」とも漢詩に作られているのですよ。
唐葵(立ち葵)は、日の光の移るのに従って花が傾くというのは、草木ともいえない分別のある心を持っています。
さしも草。八重葎。
つきぐさは、染めた色があせやすいというのが、どうも情けないことです。
御存じ「何々は・・」の章段の一つですが、実に多くの種類が述べられています。
もちろん、現代の私たちの生活の周囲には、園芸店や植物園などへ行けば、はるかに多い種類の「草」を見ることが出来るのでしょうが、生活との密着度においてはとても平安の人々に及ばないような気がします。
本段でも感じるのですが、草や木について語る少納言さまは、とても生き生きとしているように思われるのです。