キャットスマイル
① チロの微笑み
「お母さん、ほら、見て。このネコ笑ってるよ」
「ええっ・・、まさかァ・・、気のせいでしょう?」
「ほんとよ、ほら、私の顔を見て安心したのよ、それで微笑んでるのよ」
この、お姉さんの言葉が、ボクが新しい仲間たちと生活するきっかけになったのです。
* *
その朝、目を覚ましたとたんに、何か大変なことが起こっているらしいことを感じました。
だって、あたりの様子が全然違うのです。いつもはタオルが敷かれている箱の中で寝ていたのですが、今いる所は草むらの中なのです。
そういえば、昨夜、食事の後気持ちよく眠っている途中に誰かに抱えられたような記憶がかすかにあるのですが、それも一瞬そう思っただけでまた眠ってしまったのです。その後でも、何だか寝心地が違うなと思いながら何度か寝返りを打ったりしたのですが、目覚めてみると、何と草っぱらの大きな木の根元にいたのです。
大きく伸びをして、いつものように水を飲もうと思いましたが、水が入っている入れ物がないのです。第一、ここは家の中ではなく、外だったのです。
とにかく水を探そうとボクは歩きだしました。そう、ボクは目もしっかりと見えるし、歩くだけではなく、走ることも出来るんだよ。
理由は分からないけれど、今ボクがいる所は広場になっていて、その一角には、水がポトポトと落ちている所があったので、下に流れている水を飲むことが出来たのです。
そして、もう一度先ほどの木の根元近くにうずくまって、食事を持ってきてくれるのを待つことにしました。
その後、またうとうとしたりして大分時間が過ぎましたが、いつまでたっても食事もミルクも持ってきてくれないのです。近くを人が大勢通るのですが、誰も知らんぷりです。
何度か水を飲みましたが、それだけでは空腹は治まりません。やはり、何か大変なことが起こっているみたいなのです。
ボクはその広場を出て、道を横切ってどこかの家の庭に入りこみました。何かを食べないことには空腹で目が回ってしまいます。
すると突然、大きな声が聞こえてきました。誰かが竹箒のようなものを持ってボクに向かってくるのです。ボクは夢中で逃げました。食事をくれるどころか、あんな棒でぶたれたりしたら大変です。
夢中で逃げ込んだ所は別の家のようでした。ボクは注意深くその家に近付きました。また追い払われるのは恐いけれど、食べ物らしい匂いが微かにするのです。
その家のテラスに食器が置かれていて、食べ残しらしいものがあったのです。いつものよりは固いし、一片が大きいのですが、文句を言える状態ではないので、夢中で食べました。
ほとんど食べ終わった頃、今度は犬の声がして、ボクを威嚇しているのです。どうやら、あの犬の残りを頂戴してしまったらしいのです。
もう大丈夫だと思われるあたりまで逃げると、今度はのどが渇いてきました。水のある所に戻ろうと思いましたが、その方向が分からなくなってしまいました。人や犬に追われているうちに、どこをどう逃げたのか分からなくなってしまったのです。
家が途切れた先は畑地になっていて、小川の水を飲むことが出来ました。
その夜は、最初とは違う広場に出たので、茂みの陰で寝ることにしました。
お腹も少し空いていたし、何よりもひとりぼっちなのが寂しくて、なかなか寝付けませんでしたが、生まれて初めて走り回ったため疲れていて、いつの間にか眠ってしまいました。
一晩眠れば前の家に帰っているはずだと願っていましたが、次の朝も知らない広場の茂みの中でした。
大変なことになってしまった、という思いも浮かんできましたが、それよりも空腹の方が激しくて、とにかく食べ物を求めて歩きだしました。
すると、激しい唸り声がしました。このあたりを縄張りにている野良ネコらしく、いやに太っていて噛みついてきそうな気配です。幸い、ボクがあまりに小さいので見逃してくれたのか、ボクが逃げ出すと後を追ってくるようなことはありませんでした。
幾つかの家や、茂みなどを通り抜けましたが、食べ物らしいものは見つかりません。水は何度か飲みましたが、空腹は治まりません。
いつの間にか、また公園らしい所に出た時、ボクを呼んでいるような声がしました。向こうの方に五人ほどの子供が集まっていて、ボクを呼んでいるみたいなのです。
知らない人たちですが、きっと何か食べさせてくれると思って恐る恐る近付くと、その中の一人が虫を捕る網みたいなものでボクを捕まえたのです。
ボクは怒りました。食べ物をくれるどころか、いきなりこんな乱暴される理由などないはずです。ボクは精一杯の声で怒りましたが、子供たちは、「怒った、怒った」などと言いながらその網と一緒にボクを振り回すのです。そのうちに網から放り出されてしまい、腰のあたりを激しく地面に打ちつけられました。
目も回っていましたが、ボクは必死になって立ちあがり、よろけながら近くにあった溝に逃げ込みました。溝にはほとんど水はありませんでしたが、体中泥だらけになりながら走りました。その溝の半分ぐらいには金網のような物が張られていたので、その下まで逃げてうずくまりました。
しかし、子供たちは執念深く追っかけてきて、金網の上で暴れたり、細い木の枝を見つけてきて、隙間からボクを突こうとするのです。
ボクは再び溝の中を走りだし、懸命に飛びあがって外に出ました。
その時、首のあたりに激しい痛みを感じました。何かが突き刺さったらしく、とても激しい痛みです。
傷の様子を確認したいのですが、子供たちがなお追ってくるのでその暇もありません。
広場を突っ切って道路を渡ってどこかの家の庭に駆け込みました。全速力で走ったのですが、すでに弱ってよろよろしていたらしく、人間の子どもなんかが簡単に追い付いてくるのです。ボクは大きな庭木があったのでそこに駆け登りました。生まれて初めての木登りでしたが、子供たちはなおも垣根越しに網でボクを捕まえようとしているのです。
ボクは大声で威嚇を続けましたが、いつの間にか泣き声になっていたかもしれません。声がだんだん小さくなり、傷の痛みも激しくなってきて、ただ網で掬い捕られないように木にしがみついていました。
その時でした。ボクや子供たちの声が聞こえたのでしょうか、その家の人が出てきました。女の人が二人です。
「あなたたち、何をしてるの。動物をいじめたら駄目でしょう」
と、子供たちを叱りつけました。
子供たちは憎まれ口を聞きながらも、逃げ出して行きました。ボクはほっとするとともに全身の力が抜けてしまったのか、木から下りることが出来なくなってしまいました。
「もう、大丈夫よ。安全な所へ逃げなさいよ」
と、女の人はボクの近くまで来て言ってくれましたが、ボクは体が硬直してしまったようで、動けなくなってしまっていたのです。
「降りられないの?」
と女の人は近くまで来てボクを覗き込みました。高くまで登ったつもりだったのですが、その人が楽に覗きこめる程度の位置だったのです。
「大変! この子、怪我をしてるわ。首に何か刺さってるわ」
と、もう一人の女の人に言いました。
「触ったらだめよ。そんなに汚れているのだから野良でしょう? 少し休んだら、勝手に出て行くわよ」
「でもお母さん、ちょっと見て、大変な怪我よ。このままじゃ、死んでしまうわよ」
と言いながら女の人は、ボクに手を伸ばしました。
ボクは再び危険を感じましたが、体が動かないうえ、もうどうでもよいような気持ちになりかけていました。
女の人は、そっと手を伸ばしてボクを抱きかかえました。どろどろの上、胸のあたりに血がついているのも気にならないようです。
抱きかかえられた時、一瞬ボクは逃げ出すことを考えましたが、覗き込んでいる人の顔を見ると、もうどうなっていいや、といった気持になりました。すると、女の人は大きな声を出したのです。
「お母さん、ほら、見て。このネコ笑っているよ」
* *
結局その人がお母さんを説得して、ボクは病院に連れて行かれました。
先生の見立てでは、首には木が刺さっていて、これは少し切ればうまく処置できるが、感染症の心配があるので、そちらの治療も必要だということでした。
さらに先生は、「治療はさせていただきますが、その上は飼ってやって下さいよ」とお母さんに念を押していました。
お母さんは、「でも、三匹目よ。お父さんにまた叱られてしまう」と困った様子でした。
しかし、もう一人の女の人、お母さんの娘さんは、「だって、お母さん。このネコ、わたしを見て笑ったのよ。わたしに抱かれて安心して笑ったのよ。棄てることなんて出来ないわよ、ねえ、チロちゃん」
「チロちゃんて、何?」
「この子の名前よ。チロちゃん、手術をしてもらって、元気になるのよ」
こうしてボクは、この家の一員になることが出来たのです。
お母さんには、お父さんを説得するという大仕事が残っていましたが、ボクには早くも「チロ」という名前が付けられたのでした。
* * *
① チロの微笑み
「お母さん、ほら、見て。このネコ笑ってるよ」
「ええっ・・、まさかァ・・、気のせいでしょう?」
「ほんとよ、ほら、私の顔を見て安心したのよ、それで微笑んでるのよ」
この、お姉さんの言葉が、ボクが新しい仲間たちと生活するきっかけになったのです。
* *
その朝、目を覚ましたとたんに、何か大変なことが起こっているらしいことを感じました。
だって、あたりの様子が全然違うのです。いつもはタオルが敷かれている箱の中で寝ていたのですが、今いる所は草むらの中なのです。
そういえば、昨夜、食事の後気持ちよく眠っている途中に誰かに抱えられたような記憶がかすかにあるのですが、それも一瞬そう思っただけでまた眠ってしまったのです。その後でも、何だか寝心地が違うなと思いながら何度か寝返りを打ったりしたのですが、目覚めてみると、何と草っぱらの大きな木の根元にいたのです。
大きく伸びをして、いつものように水を飲もうと思いましたが、水が入っている入れ物がないのです。第一、ここは家の中ではなく、外だったのです。
とにかく水を探そうとボクは歩きだしました。そう、ボクは目もしっかりと見えるし、歩くだけではなく、走ることも出来るんだよ。
理由は分からないけれど、今ボクがいる所は広場になっていて、その一角には、水がポトポトと落ちている所があったので、下に流れている水を飲むことが出来たのです。
そして、もう一度先ほどの木の根元近くにうずくまって、食事を持ってきてくれるのを待つことにしました。
その後、またうとうとしたりして大分時間が過ぎましたが、いつまでたっても食事もミルクも持ってきてくれないのです。近くを人が大勢通るのですが、誰も知らんぷりです。
何度か水を飲みましたが、それだけでは空腹は治まりません。やはり、何か大変なことが起こっているみたいなのです。
ボクはその広場を出て、道を横切ってどこかの家の庭に入りこみました。何かを食べないことには空腹で目が回ってしまいます。
すると突然、大きな声が聞こえてきました。誰かが竹箒のようなものを持ってボクに向かってくるのです。ボクは夢中で逃げました。食事をくれるどころか、あんな棒でぶたれたりしたら大変です。
夢中で逃げ込んだ所は別の家のようでした。ボクは注意深くその家に近付きました。また追い払われるのは恐いけれど、食べ物らしい匂いが微かにするのです。
その家のテラスに食器が置かれていて、食べ残しらしいものがあったのです。いつものよりは固いし、一片が大きいのですが、文句を言える状態ではないので、夢中で食べました。
ほとんど食べ終わった頃、今度は犬の声がして、ボクを威嚇しているのです。どうやら、あの犬の残りを頂戴してしまったらしいのです。
もう大丈夫だと思われるあたりまで逃げると、今度はのどが渇いてきました。水のある所に戻ろうと思いましたが、その方向が分からなくなってしまいました。人や犬に追われているうちに、どこをどう逃げたのか分からなくなってしまったのです。
家が途切れた先は畑地になっていて、小川の水を飲むことが出来ました。
その夜は、最初とは違う広場に出たので、茂みの陰で寝ることにしました。
お腹も少し空いていたし、何よりもひとりぼっちなのが寂しくて、なかなか寝付けませんでしたが、生まれて初めて走り回ったため疲れていて、いつの間にか眠ってしまいました。
一晩眠れば前の家に帰っているはずだと願っていましたが、次の朝も知らない広場の茂みの中でした。
大変なことになってしまった、という思いも浮かんできましたが、それよりも空腹の方が激しくて、とにかく食べ物を求めて歩きだしました。
すると、激しい唸り声がしました。このあたりを縄張りにている野良ネコらしく、いやに太っていて噛みついてきそうな気配です。幸い、ボクがあまりに小さいので見逃してくれたのか、ボクが逃げ出すと後を追ってくるようなことはありませんでした。
幾つかの家や、茂みなどを通り抜けましたが、食べ物らしいものは見つかりません。水は何度か飲みましたが、空腹は治まりません。
いつの間にか、また公園らしい所に出た時、ボクを呼んでいるような声がしました。向こうの方に五人ほどの子供が集まっていて、ボクを呼んでいるみたいなのです。
知らない人たちですが、きっと何か食べさせてくれると思って恐る恐る近付くと、その中の一人が虫を捕る網みたいなものでボクを捕まえたのです。
ボクは怒りました。食べ物をくれるどころか、いきなりこんな乱暴される理由などないはずです。ボクは精一杯の声で怒りましたが、子供たちは、「怒った、怒った」などと言いながらその網と一緒にボクを振り回すのです。そのうちに網から放り出されてしまい、腰のあたりを激しく地面に打ちつけられました。
目も回っていましたが、ボクは必死になって立ちあがり、よろけながら近くにあった溝に逃げ込みました。溝にはほとんど水はありませんでしたが、体中泥だらけになりながら走りました。その溝の半分ぐらいには金網のような物が張られていたので、その下まで逃げてうずくまりました。
しかし、子供たちは執念深く追っかけてきて、金網の上で暴れたり、細い木の枝を見つけてきて、隙間からボクを突こうとするのです。
ボクは再び溝の中を走りだし、懸命に飛びあがって外に出ました。
その時、首のあたりに激しい痛みを感じました。何かが突き刺さったらしく、とても激しい痛みです。
傷の様子を確認したいのですが、子供たちがなお追ってくるのでその暇もありません。
広場を突っ切って道路を渡ってどこかの家の庭に駆け込みました。全速力で走ったのですが、すでに弱ってよろよろしていたらしく、人間の子どもなんかが簡単に追い付いてくるのです。ボクは大きな庭木があったのでそこに駆け登りました。生まれて初めての木登りでしたが、子供たちはなおも垣根越しに網でボクを捕まえようとしているのです。
ボクは大声で威嚇を続けましたが、いつの間にか泣き声になっていたかもしれません。声がだんだん小さくなり、傷の痛みも激しくなってきて、ただ網で掬い捕られないように木にしがみついていました。
その時でした。ボクや子供たちの声が聞こえたのでしょうか、その家の人が出てきました。女の人が二人です。
「あなたたち、何をしてるの。動物をいじめたら駄目でしょう」
と、子供たちを叱りつけました。
子供たちは憎まれ口を聞きながらも、逃げ出して行きました。ボクはほっとするとともに全身の力が抜けてしまったのか、木から下りることが出来なくなってしまいました。
「もう、大丈夫よ。安全な所へ逃げなさいよ」
と、女の人はボクの近くまで来て言ってくれましたが、ボクは体が硬直してしまったようで、動けなくなってしまっていたのです。
「降りられないの?」
と女の人は近くまで来てボクを覗き込みました。高くまで登ったつもりだったのですが、その人が楽に覗きこめる程度の位置だったのです。
「大変! この子、怪我をしてるわ。首に何か刺さってるわ」
と、もう一人の女の人に言いました。
「触ったらだめよ。そんなに汚れているのだから野良でしょう? 少し休んだら、勝手に出て行くわよ」
「でもお母さん、ちょっと見て、大変な怪我よ。このままじゃ、死んでしまうわよ」
と言いながら女の人は、ボクに手を伸ばしました。
ボクは再び危険を感じましたが、体が動かないうえ、もうどうでもよいような気持ちになりかけていました。
女の人は、そっと手を伸ばしてボクを抱きかかえました。どろどろの上、胸のあたりに血がついているのも気にならないようです。
抱きかかえられた時、一瞬ボクは逃げ出すことを考えましたが、覗き込んでいる人の顔を見ると、もうどうなっていいや、といった気持になりました。すると、女の人は大きな声を出したのです。
「お母さん、ほら、見て。このネコ笑っているよ」
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結局その人がお母さんを説得して、ボクは病院に連れて行かれました。
先生の見立てでは、首には木が刺さっていて、これは少し切ればうまく処置できるが、感染症の心配があるので、そちらの治療も必要だということでした。
さらに先生は、「治療はさせていただきますが、その上は飼ってやって下さいよ」とお母さんに念を押していました。
お母さんは、「でも、三匹目よ。お父さんにまた叱られてしまう」と困った様子でした。
しかし、もう一人の女の人、お母さんの娘さんは、「だって、お母さん。このネコ、わたしを見て笑ったのよ。わたしに抱かれて安心して笑ったのよ。棄てることなんて出来ないわよ、ねえ、チロちゃん」
「チロちゃんて、何?」
「この子の名前よ。チロちゃん、手術をしてもらって、元気になるのよ」
こうしてボクは、この家の一員になることが出来たのです。
お母さんには、お父さんを説得するという大仕事が残っていましたが、ボクには早くも「チロ」という名前が付けられたのでした。
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