『 九条流の代替わり ・ 望月の宴 ( 33 ) 』
九条殿(師輔)のご一族が、ある方は不運に沈み、ある方は洋々たる未来へと歩を進められておりましたが、この年(989年)も六月になりました。
毎年のことながら、人々は、厳しい暑さに悩まされておりましたが、三条の太政大臣殿(賴忠・・兼家らの従兄弟にあたる)が、重い病にかかり、二十六日にお亡くなりになりました。この殿は、故小野宮の大臣殿(実頼)のご次男の頼忠と申されるお方でございます。
このご逝去を、それを悼み嘆き悲しまれている様子が伝えられていますが、詮無いことでございます。中でも御子である、円融帝皇后遵子さま、花山帝女御諟子さま、権中納言公任殿たちのお嘆きは、察するに余りあるものでございます。
御諡(イミナ)は廉義公(レンギコウ)と申されます。
悲しみの中、あっけなく御忌みの期間も過ぎて、御法事なども盛大に行われました。
七月末には、相撲節会でございますが、今年は催されないのではないかとの噂でございます。
そして、臨時の除目が行われまして、摂政殿(兼家)が太政大臣におなりになりました。摂政殿の大納言殿(道隆)は内大臣におなりになりました。中納言殿(道兼)は大納言になられ、三位殿(道長)は中納言で右衛門督(ウエモンノカミ・皇居諸門の護衛、行幸の供奉などを司る役所で、左右ある。督は長官。)を兼務なさいました。
小千代君(道隆の三男、伊周)は、源中納言重光殿の御婿になられましたが、重光殿は村上天皇の女御荘子女王の兄君でいらっしゃぃますから、小千代君の嫁取りは兄君(道隆の長男、道頼)より断然勝っていると噂されております。
小野宮の実資(サネスケ)の君は、宰相(参議)に就かれました。このお方は、祖父の実頼殿の養子となり小野宮流と膨大な資産を継承された御方でございます。まだ独身で、その人柄も奥ゆかしいことから、年頃の姫君をお持ちの殿方などは、しきりに意向を探っておられるようですが、いったいどういうお考えからか、具体的なお話しは聞こえて参りません。
かくて三、四の宮(為尊親王と敦道親王、ともに冷泉天皇の皇子。)の御元服の儀が一度に行われる。そして、三の宮を弾正宮(ダンジョウノミヤ・大臣以下の非違を弾劾する弾正台の長官であるが、名誉職であった。)と申し上げた。四の宮を師宮(ソチノミヤ・大宰帥に任じられた親王のことで、太宰府を統率する重職。師宮は任地には行かず、権師また大弐が代行した。)と申し上げた。
式部卿(為平親王)、中務卿(具平親王)、兵部卿(永平親王。史実としては、すでに薨去していて空位であったようだ。)などには村上先帝の御子たちがお就きになっていたので、このような役をお当て申されたのである。
それはそうと、この頃の斎宮としては、式部卿宮の御娘(婉子・花山天皇女御)の御妹の中の宮(恭子女王)がいらっしゃる。
帝は変わられましたが、斎院は変わることなく村上帝の十の宮(選子内親王)でいらっしゃる。
こうして月日は過ぎていく。
何いうこともなく年は暮れて、今年を正暦(ショウリャク)元年という。
正月五日、帝(一条天皇)の御元服の儀が行われる。
引き続き世間ではその準備を急いでいたが、摂政殿(兼家)が二条院で大饗を催される。
手をかけて磨き上げた邸内の有様は、えもいわれぬほど美しく立派なので、殿はご満足で、たいへん喜ばれ楽しんでおられる。
一条の右大臣(為光)が主賓として参上なさった。隅々まで見渡しても興趣尽きぬ有様である。
えもいわれず立派な東の対には、内大臣殿(道隆)がお住まいなので、そこから姫君たち(定子、原子ら)も見物しておられるので、ほかの殿方たちも見物したいと申し入れられたが(道兼、道長らが娘や女房たちの見物を申し出た、ということらしい。)、お許しにならない。
宮々(為尊親王と敦道親王)はほんとうに可愛らしい少年であられる。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます