『 北の方の懐妊 ・ 望月の宴 ( 29 ) 』
道長殿の正室倫子さまの御父である土御門の源氏の左大臣雅信殿は、このところ頭を痛めておいでのようでございます。
と申しますのは、少将でいらっしゃった男君(時方か?)が、最近また出家なさったのです。雅信殿は、まったくどういう事なのかと嘆かれ、「この兄弟たちは、あの姫(倫子)のために力になってやろうという気持ちはないのか。次々と皆法師になってしまった」と、あきれ果てたご様子で、「帰ってこい、帰ってこい」と責められましたが、聞き入れようとなさらないようでございます。
倫子さまの同母のご兄弟は、時通殿、時叙殿はすでにご出家なさっていて、またまた時方殿までがご出家となれば、お嘆きも当然のことでございましょう。左大臣殿のご威光のもと、洋々とした将来をお持ちでありながら、世をはかなんでの事だとすれば、ご理解に苦しんでしまいます。
他の御腹の男君たちは、かえってご出世に恵まれたように見えるのでございます。
こうした中、かの土御門殿におきましては、道長殿の北の方倫子さまのご気分がすぐれない様子でございましたが、どうやらご懐妊の兆候が見えてきて、兼家殿も道長殿もたいへんなお喜びで、安産のためのご祈祷を大々的に催されておられます。雅信殿の北の方穆子さま、大北の方(雅信殿の母、時平の娘)さまも、御心遣いの限りを尽くされ、着々と準備を進められているとのことでございます。
まったく、道長殿を婿に迎えられたことによって、土御門の御邸はまことに繁栄を予感させる様子でございました。
さて、円融院のご様子はたいそう結構にお過ごしであられる。
一方、冷泉院は、元方の霊に祟られるなど御悩み多く、生きている甲斐もない有様であるが、この院は、たいそう多くの人々がお心を寄せて奉仕申し上げている。
こうして、永延二年 ( 988 ) になったので、正月三日に円融院の行幸があって、母后(一条天皇の母、詮子)も出御なさったので、ますます儀式も有様も勝っていて、格別にすばらしいものであった。
帝(一条天皇)の御有様、たいそう可愛らしくあられるので、父の円融院はまことにご対面の甲斐があったと、感無量でご覧になっておられる。
帝は御笛に熱心であられるので、お吹かせになられ、たいそうお楽しみであった。
院の御方では、帝への御贈物や、母后への御贈物などを、あれこれ様々にご用意されていた。上達部、殿上人の御禄の品々なども、すべてが見る目にも鮮やかで見事にご用意されていた。御乳母の典侍(ナイシノスケ)たちや、すべての命婦、蔵人、母后の女房たち、さらには下々の数にも入らないような衛士、仕丁に至るまで、それぞれに応じた品々を賜った。
また、院司や上達部や、しかるべき人々には、加階の栄転をお与えになられた。
このように、円融院が申し分のないご様子とお見受けするにつけても、冷泉院の御有様を取り沙汰されるのである。
あのようなご様子であられるが(冷泉院には多くの奇行が見られた。)、そのようであられても、そのご恩顧のもとにお仕えしている男女は、ただ、「観音菩薩が、衆生を済度するために、仮に人となって出現なさったのだ」とお噂している。
ほんの少しお召しになった御衣や御衾(オンゾやオンフスマ・着物や夜具。)などは、ご使用なさるとすぐにお下げ渡しになられるので、我も我もと競って頂くという有様なので、院ご自身は、冬などはたいそう寒そうになさっているのも、たいへん畏れ多いことである。
冷泉院の三の宮(為尊親王)、四の宮(敦道親王)などがたまに参上なさるときは、たいそう殊勝に情を寄せられるのであった。しかし、御物の怪の発作が大変恐ろしいので、そうそう気軽には参上なさることもない。
この冷泉院は、このようではあられたが、しかるべき御領のいくつかや、立派な御宝物をたくさんお持ちであったので、それらは東宮(居貞親王)やこの皇子たちに、すべてお与えになられたのである。
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