当地の本日の天候は、晴れ時々曇りといったところですが、風がやや強く、今年一番の寒気がやって来ています。(本稿は、18日に書いています。)
豪雪に襲われている地域の方々には申し訳ないのですが、ガラス戸越しに庭を見ながら、とても庭作業は無理だなと自分に言い聞かせながら、テレビ優先になっています。
そのわが家の小さな庭は、頑張っていた菊の群れもどうやら枯れている部分の方が多くなり、日曜日の今日あたりは、庭作業の絶好のチャンスだったのですが、「枯れ木も山の賑わい」というぐらいなので、枯れてきた菊や、葉を落してしまったフジ、小ぶりの梅の木も寒々としていて、毎年この季節からの庭の主役を務めてくれるノースポールは、何故か今年は数えるほど、パンジー類は種から育てていますので、まだ赤ちゃん状態です。
庭の役者たちがこの状態のうえ、この寒さに加えて世話人が頼りないものですから、ここは「枯れ木も山の賑わい」と頑張って欲しいところです。
とはいえ、やはり、「枯れ木も山の賑わい」という言葉は、そのまま素直に受け取れることが出来ず、どうも我が身になぞらえてしまって、余計に寒さが増してくる気がしてしまいます。
そこで、似たような言葉として、「枯れ木に花」という言葉を少しばかり追っかけてみました。
「枯れ木に花」から まず連想しますのは、「枯れ木に花を咲かせましょう」という名文句で知られる昔話「花咲か爺」でしょう。昔話や童話に共通していることですが、考えようによっはとても残酷な一面も持っていますが、勧善懲悪を示していて、最後は「めでたしめでたし」となっています。
ただ、「枯れ木に花を咲かせる」といった言葉は、私などは「花咲かじいさん」を連想しますが、その誕生はもっと古いようです。
「枯れ木再び花を生ず」といった教えは、鎌倉仏教やその頃の文献などにも登場しているようです。さらに、観音の霊験として「枯れ木に花を咲かせた」とされるものは、平安時代には登場していたようです。民話の「花咲か爺」の方は、室町時代から江戸時代初期にかけて完成したとされますから、この言葉の出発点は、どうやら仏教からのようです。
「枯れ木に花」を辞書で調べてみますと、「衰えたものが再び栄えることのたとえ」と、「どんなに望んでも実現しないことのたとえ」の二つの意味が示されています。「どちらを取ればいいのか」と突っ込みたくなってしまいますが、ついつい自らを「枯れ木も山の賑わい」と自嘲しがちのご同輩諸兄、ここは「枯れ木再び花を生ず」の心意気で行きたいものです。
まあ、いくら頑張ったところで、花咲かじいさんの絵本に描かれている見事な桜はとても無理でしょうが、吾亦紅(ワレモコウ)もどき程度は可能かもしれませんねぇ。
( 2022.12.19 )
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