雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

本音と建て前 ・ 小さな小さな物語 ( 1222 )

2019-12-08 15:02:32 | 小さな小さな物語 第二十一部

私たちは、ほとんどの人が二つや三つの顔は持っているようです。
「本音と建て前」という言葉がありますが、私たちは、交渉事となれば、程度の差はあるとしても「本音と建て前」を使い分けているものです。それもほとんどの人は、それほど強い認識はないままに、「本音と建て前」を使い分けているようです。
「一天地六」という言葉もあります。この言葉の本当の意味するところはよく分からないのですが、言葉自体は、サイコロの目が、天(上)が①の場合は、反対側の地(下)は⑥であることを表現した言葉で、映画などでは、威勢のいい兄さんのセリフというのが定番のようです。つまり、「運を天に任す」とか「いさぎよさ」などを表現させる言葉として使われることが多いようです。

さて、その「本音と建て前」ですが、この言葉はあまり良い意味で使われることは少ないようですが、本当は私たちの心の中には、まるで住み着いているかのように存在しているものであって、それをどのように使い分けるかはほとんどの場合には無意識のうちにその程度を判断して行動しているようで、それが、人柄とか性格の一端を担っているようです。
ただ、この言葉は、時には、確固たる意志を持って使われることがあり、その場合の多くは、悪意に近いほどの意志をもって相手から利益を奪い取ろうとしているように思われます。
「一天地六」も似たような部分があって、一見、いさぎよく見え、物事を達観しているかに見えてしまうのですが、映画の中のセリフとしてはともかく、日常生活の中で使われると、「なげやり」であるとか、「自分の責任を放棄している」ように見えてしまうように思います。

私たちの日常生活の中において、明らかな交渉の場においてはもちろん、そういう意思のない場においても、案外、これら二つの言葉を連想させるような場面があるものです。
そして、私たちの社会全体となれば、「本音」も「建て前」も、その意味するところが全く違ってくる場合があり、そういう相手との交渉事は、双方ともが「本音」も「建て前」もかみ合わないままとなれば、しんどい交渉となってしまいます。
「一天地六」となればさらに大変です。相手は、自分の行動を恥ずかしいなどとは思わず、むしろ颯爽とでもしているかのように、サイコロを放り投げ、「自分は①でお前は⑥だ」と大見得を切って、聞く耳など全く持っていない場合が少なくないのですから、その対応は・・・、どうすれば良いのでしょうかねぇ。

私たちは、誰でも、二つや三つの顔を持っています。それどころが、百面相とでも表現したくなるような顔の持ち主もいます。
交渉事においては、いくつかの顔を持っているのは相手だけでなく自分自身も同様なのです。ややもすると、自分の顔の数より相手の顔の数の方が遥かに多いように思うものですが、案外良い勝負かもしれません。
その二人が、例えば、「十の顔」を持った人どうしが、一、二の三で「一つの顔」を見せ合った場合、同じような価値観を持った顔どうしが出合う確率は、極めて低いものです。しかも、それぞれが持っている「十の顔」は、同種のものとは限らないのですから、交渉事が難しいのは当然なのです。
個人どうしでもそうなのですから、これが国家間となれば、さらに複雑になるのは仕方がないのでしょうね。

( 2019.08.07 )


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