隣国との対立関係は、解決の目途が見えないままむしろ激しさを増している感があります。
一方は報復措置だと言い、もう一方も報復措置だと言う。今回は、たまたま(?)同じような貿易手続きの変更がなされましたが、それでも、両国ともに、相手国の行動は報復措置だと言い、自国の行動は貿易管理上の正当な措置だと主張し合っているようです。
拳を振り上げ合ったところで、打ち合うわけにもいかず、睨みだけで相手を降参させようと思い合っているような気さえします。
他人の痛みは忘れることが出来ても、自分の痛みはなかなか忘れることが出来ないのは、聖人君子同士でもなければ、当たり前のことなのかもしれません。
『目には目を、歯には歯を』という、よく知られた言葉があります。
言葉の意味は、ごく一般的には、「同害報復」といわれるもので、「目をやられたら、目をやっつけろ」「歯をやられたら、歯をやっつけろ」つまり、「やられたら、やり返せ」というふうに使われることが多いようです。
隣国との対立は、その形に近い状態のように見えます。両国が、「やられたら、やり返せ」という決意を固めているとすれば、両国ともに自国が先にやられたと考えている状態ですから、双方ともに次はどこに仕返しをすべきかと作戦を練っている状態かもしれません。
そうだとすれば、次はどちらかが足を狙い、それに対して足に仕返しをし、それに対して次は腕を狙い、それに対して腕に仕返しをし・・・、最後は心臓を打ち合うところまで行くことになるのでしょうか。
『目には目を、歯には歯を』という言葉の出典は、ハムラビ(ハンムラビ)法典だそうです。
ハムラビ法典は、バビロン第一王朝の第六代の王ハムラビ(在位紀元前1700年前後)が、慣習法を成文化し発布した法典で、完全な形で残る最古の法典です。
この法典の中にこの言葉が示されているようですが、この言葉の解釈には、大きく分けて二つの解釈がなされているようです。
一つは、前記したように「やられたら、やり返せ」を容認しているという考え方です。
もう一つは、「同害報復」という手段は容認しながらも、報復に限度を設けているのだという考え方です。つまり、「目をやられたら、仕返しするのは目に限る」ということで、それ以上の報復を戒めているということになります。
研究者の中には、さらに進んで、「目をやられたら、自分の目だけで済ませなさい」つまり報復などもってのほかです、とする人もいるようですが、個人的には、少々考えすぎのような気がします。
この考え方には、聖書の影響を受けているような気もしますので、少し長くなりますが引用してみます。
聖書の中の「山上の説教(垂訓)」(マタイ伝)と呼ばれる部分に、「『心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである』で始まる有名な教えが列記されていますが、その中に、『あなた方も聞いている通り「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかしわたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。 」という教えがあります。この部分は、報復行為を戒めていることは確かですが、『目には目を、歯には歯を』ということは、報復行為を容認している言葉だと、イエスは承知していたのだと私は理解しています。
少々くどくなりましたが、悲しいかな、私たちは憎しみの心を棄て去ることは、そうそう簡単な事ではないようです。憎まれることは不幸ですが、憎む方もやはり不幸です。しかも、私たち人間というのは、常に自分の方には言い分があると思う本能を備えているようなのです。第三者が見て、100%相手が正しいという場合でも、1%くらいはこちらにも言い分があるという心の底の声を払拭できない悲しい性を、私たちはどうすることもできないようです。
『目には目を、歯には歯を』という行為は、ハムラビ王の遥か昔からの人間関係の一つなのかもしれません。隣国同士が、仲が良くない例は、歴史上数えきれないほど見られる現象です。
わが国がこの地を離れることが出来ない以上、私たちは何とか知恵を生み出して、隣国に限りませんが、価値観の違う国家とも平等な友好関係を築いていかなくては、存在できなくなるのではないでしょうか。
( 2019.08.16 )
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