ちょっとした難儀に直面すると、固いはずの決心は容易に揺らいでしまい、我ながら自分の信念の弱さを感じたことは、これまでに二度や三度ではないように思います。
自分が人間として、最低限の人格を保つためには、この一線からは絶対に譲れない・・・、と固い決意を抱きながら、その一線が少しずつ後退し、「いやいや、大人の対応というものもあるはずだ」と心の中で歯ぎしりしながら、最後の一線をずたずたにして棄て去り、懸命に自分自身に言いわけし、その自分の姿を悲しく見つめている自分がいたように思い出されます。
『ゆるぎない信念』という言葉は、私にとってまぶしくもあり、一種のトラウマのようなものを誘発する力を持っているように感じています。
ところが、人生を長く生きていくうちに、たいして知恵や経験を積むことが出来なくても、少し考え方が変わってきたように思うことがあります。
『ゆるぎない信念』などという生き方(?)は、もしかすると、目くじらを立てるほどの事ではないような気がしてきているのです。
各界の指導的な立場と思われる人々の言動などを数多く見聞きするにつけ、『ゆるぎない信念』などというものは、観念上のものだけで、社会を泳ぎ抜くためには、浮き輪程度の役には立つとしても、すばやく前進するにはむしろ負担になるものなのかもしれないように感じるのです。
政党間に見られる論争は、政治的信念に基づくもので、主義主張が対立する部分があることに意味があるともいえますが、論争の結果得られるもとは多くないように思われます。
最近厳しさを増している隣国との対立を見ていると、『ゆるぎない信念』などというものは、身を守る武器であり、自由自在に姿を変える攻撃の武器であり、何よりも、自分自身の矛盾に苦しむ心を鎮める魔法の言葉なのかもしれない、と思ったりするのです。
『老子』は、その教えの中で、剛直であることを戒め、柔軟であることを良しとしています。『老子』の教えを、たとえその一端だとしても簡単に一行で説明することは、とんでもないことだとは思いますが、『ゆるぎない信念』そのものも、人の世を生きていくうちに、挫折のために後退し、能力の限界から縮小していく事実を知りながら剛直であり続けることは、正しくないのかもしれません。
主義主張に拘り続けると世間は狭くなり、スポーツであれ教育であれ過去の経験を押し付ける指導は、多くの不幸を生み出しています。どうやら、『ゆるぎない信念』も、そうした一面を持っているようで、自己に課するのはともかく、間違っても他人様に押し付けてはならないことは確かなようです。
『老子』まで持ち出してこのような考えを披露することじたい、自分の『ゆるぎない信念』が姿を消しかけている証拠なのかもしれません。
( 2019.08.19 )
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