雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

定子の入内 ・ 望月の宴 ( 34 )

2024-03-13 20:31:26 | 望月の宴 ①

        『 望月の宴 ( 34 ) 』


さて、内大臣殿(道隆)の大姫君が入内なさいました。
この大姫君は定子さまと申されますが、このお方は一条天皇の寵愛を受け、道隆殿を中関白家として宮廷権力の頂点に導くのに大きな影響を与えたお方と言えるのではないでしょうか。
また、その一方では、枕草子の作者清少納言がこよなく敬愛したように、類い希なる優れた容姿に加えて、知性と優雅さに満ちたお人柄は、帝が溺愛なされたのもむべなるかなと思われます。しかも、のちには、中関白家の没落とともに悲運に陥れられたうえ、その余りにはかない生涯には、多くの人が涙したのでございます。そして、そのことも含めて、この中宮定子こそは、この王朝を代表する女性の一人と申し上げてよいのではないでしょうか。
お話がそれましたが、大姫君の入内のご様子は、それはそれはたいそうな盛儀でございました。大姫君は十六歳ばかり(史実は十五歳)で、十一歳の帝より年長でございますが、まさに輝くばかりでございました。
そして、その夜の内に女御になられたのでございます。
さらに、道隆殿の小姫君(原子)のいとけないご様子に、注目と期待が寄せられているのでございます。

このようなご様子を見るにつけましても、大納言殿(道兼)は、まことにうらやましく、女君がおいででないことを残念に思っておられたことでございましょう。
粟田という所に、たいそう立派な邸宅を造り、えもいわれぬ風情に仕立て、そこにお通いになり、御障子の絵には歌枕にある名所を描かせて、しかるべき人々に歌を詠ませられています。
世に伝わる絵物語を書き写されたり、女房を大勢集められて、ひたすら将来に備えて準備されているそうですが、人々は、まだ女君がいらっしゃらないのにと、可笑しく思っておられるのも当然かと思われます。

この道兼殿の男君たちの中で最年長であられる君を福足(フクタリ)君と申されましたが、一昨年の八月に病となり、あっけなくお亡くなりになられました。まことに残念なことでございましたでしょうが、この君につきましては、とかくの噂がある君で、世間の人からも愛想を尽かされたので世を早められたとの噂がございました。


内大臣殿(道隆)の正室がお生みになった三郎君(隆家)は、ただ今は四位少将などでいらっしゃる。その方も、福足君と似て手に負えなくいらっしゃるが、さすがにこちらはまだしもとお見受けする。
四郎君(隆円)はまだ幼くいらっしゃるが、法師におさせになり、小松の僧都(実因)という人に弟子入りなさった。
あれこれの腹違いのご兄弟たちは、大千代君(道頼、祖父兼家の養子になっている)よりほか、まだこれといった官職にお付けになっていない。

大殿(兼家)は長い間独り身でいらっしゃったので、御召人(メシウド・女房でありながら妻妾に準じた扱いを受けている人。)の典侍(ナイシノスケ)の扱いは、年月を経て北の方並になり、世間の人はこの人に名簿(ミョウブ・姓名、官位などを書いた札で、入門したり、家人として仕えたりするときに差し出す。)を送り、司召(ツカサメシ・京官除目)の折りにはもっぱらこの局に集まった。
この典侍という人は、冷泉院の女御(超子)にお仕えして大輔と称していた人である。

大殿が摂政になられた当初、このように独り身であられるのは悪しきことだととて、村上先帝の皇女三の宮(保子内親王)は、按察の御息所(アゼチノミヤスドコロ・正妃)と申し上げた方の御腹に男三の宮と女三の宮がお生まれになったが、その女三の宮を、この摂政殿は奥ゆかしくすばらしいお方と思いを寄せられて、お通いになられたが、すべて思い通りにならず、ご縁は絶えてしまいましたが、そのことを女三の宮もお気になさり、ご心痛の余りお亡くなりになったのである。
こうしたことも、この典侍の幸いに格別であったのであろう。

また、円融院の御時に、中将の御息所などというお方は、元方民部卿の孫にあたる女君である。後に摂政殿のもとに参られたが、まるでこの典侍の他には女人がいるとは思っていないかのような年来の有様である。
三の宮(為尊親王)や四の宮(敦道親王)の御乳母たちも典侍に劣らぬ容姿の持ち主であったが、戯れにさえ色めいた言葉をおかけになることはなかったのである。

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