先日、初めて教室に来た4歳の男の子に
「棚の上のものを勝手に取ったら危ないよ。取りたいものがあったら、
先生に言ってね」と注意したところ、すっかりむくれてしまいました。
自分の服についているひもの先をつまんで、そうっとそうっとこちらに近づいてきて、
注射器でちくんと刺す真似なんでしょうけど、それをわたしの腕に押しつけてきました。
顔は「先生をこらしめてやるぞ」と真剣そのものなのですが、
ひもの先は丸いし、押しつけるといっても、そろりそろりとこちらが
気づかないくらいの力の入れよう。
あまりにも攻撃力がない武器に、あきれるやらおかしいやら……。
その話を教室に来た少し大きな子たちに話すと、
「先生が4歳の子にやっつけられた」と大受けで、
この男の子は「先生をこてんぱにやっつけた(子どもたちの言葉)武勇伝の持ち主」
として、話の上ですっかり人気者になっていました。
いろいろな年代の子らと、この話題で盛り上がっていたとき、
その反応にハッとする瞬間が何度かありました。
普段からちょっと緊張が強いAくんのお姉ちゃんのBちゃんが、
この話を小耳にはさむやいなや、「えっ?悪い子の話?Aのこと?」とたずねました。
内容ははっきり聞こえなかったけれど、
「ええー!先生、やっつけられたの?」「うわぁ、わっるー」という友だちの相槌を
聞いて、Aくんの話だと思ったようです。
Aくんはひねくれた性格でも乱暴でもなく、むしろ情に厚くて人懐っこい性質です。
でも、感覚が過敏だったり、力加減を調節するのが苦手だったりするので、
おふざけのつもりで始めた行為がついエスカレートしがちで、
対人面での失敗が多いのです。
Aくん、Bちゃんのお母さんは決して子どもを悪い子扱いする方ではありません。
これまでも子どもたちのことを、悪く言うのを聞いたことがないほどです。
でも、「悪い子の噂」と聞いて、Bちゃんの口に即座にAくんの名前があがったのは、
常に「Aくんが悪さをして注意を受けるかも……」というピリピリした思いが
胸の中にあるからなのかもしれません。
当のAくんは、Bちゃんに「えっ?悪い子の話?Aのこと?」と言われても、
「何でぼくが?」と言い返すわけでもなく、
「ちがうちがう。この間、先生が、おそろしくこわーい目にあったのよ。
実は全然、こわくないんだけどね。ほら、パーカーのフードの部分をキューッとしぼる
部分についているようなひもがあるでしょ。その先っぽは、とんがってもいないし、
固くもなくて……」というこちらの話に引きこまれて熱心に耳を傾けたあとで、
照れたように静かに笑っていました。
緊張の強い子たちが、「何か悪さをしてやろう」とか「腹立ちまぎれに八つ当たりしてやれ」とばかりに、
自分の意思で動いた結果、叱られることは稀なのかもしれません。
たいてい、気づいた時には叱られていて、
叱られて初めて自分のしでかしたことに茫然と
してしまうという子がほとんどなのでしょう。
高まっていく不安にがんじがらめになって泣き叫んだり、
フリーズしたまま頑なに活動に参加しようとしなかったり、
テンションが上がってつい調子に乗り過ぎたりした揚句、
身近な人をイライラさせたり、がっかりさせたり、爆発させたりする
(緊張の強い子たちにとって日常茶飯事の)出来事は、
周囲の予想以上に子どもの自己肯定感を下げたり、
自分と世界への信頼感を失わさせているのかもしれません。
そのせいか、「悪さ」や「いたずら」や「嘘」や「汚いこと」といったダークな話題に敏感で、
先の4歳の子の武勇伝の話をした時ように、タブーとなっている事柄を
ユーモアを交えて、自由に言葉にできる雰囲気があると、
何ともいえないうれしそうな笑顔を浮かべたり、
緊張を緩めてホッとしたような安堵の表情を見せたり、
いきいきと目を輝かせて話に乗ってきたりします。
遊びの世界でも、安全な枠を設けながら、
「これまでこうした失敗を繰り返して、傷ついたことがあるんだろうな」といったことを
自由にアウトプットできるようにしていると、
ちょっと派目をはずしているな……という状態から、
だんだん内省的で落ち着いた状態に変化していって、周囲に打ち解けていきます。
そんな折に、ポロッと口にする言葉から、
「この子は自分はものすごく悪い子だと思い込んでいたんだな」とか、
「自分を信用できなくなっているんだな」と気づくことがあります。
大人が思わず眉をひそめたくなるような『タブー』となっているものや
『悪』と認識されているものと安全な形で関わることが、
緊張が強くてなかなか周囲と打ち解けるのが難しい子を
外の世界との関係へと誘い出すのを、何度も目にしています。
それは、他の人の思いやルールを受け入れることにもつながります。
また、周囲はもちろん、自分自身も震え上がらせてしまうような攻撃性を
アウトプットしてしまったり、
「許されないかもしれない」と感じるほどのことをやってしまったりして、
叱られるには叱られたし、泣けるだけ泣いたりしたあとで、
大人のちょっとしたことで揺るがない強さや、
地に足がついたどっしりした姿を肌で感じたときや、
大人がさまざまな視点で物事を眺めていることや、
子どもが思っているより広い視野で考えていることに気づくときも、
子どもは固い殻を破って、自ら外へ歩み出てくるようです。
そうしたプロセスを、経験的にはよく知っているし、わかってもいるけれど、
うまく説明できないもどかしさに苦しんでいました。
そこで、助けを求めるように河合隼雄先生の『子どもと悪』を読み返しました。
河合先生が、「悪の問題を論じるのに、最初に『悪と創造』を論じるのは、
思いきったことのように感じられるかも知れない」と前置きした上で、
冒頭から、悪と創造の関係について語っておられます。
著書の一部を短くまとめて紹介しますね。
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悪には、文化差のようなものが存在して、個人差を強調しすぎるきらいがある
アメリカでは、子どもが他と異なる意見を言おうとするのを教師も応援しているし、
しっかり他人と同調すると「悪」の烙印を押されそうでもあります。
一方、日本においては、創造性が悪に接近して受け止められる度合いが高いのです。
「いい子」を育てようと、教育熱心な社会では、
子どもが創造的であり個性的であろうとすることが、悪と見なされることも
多々あります。
創造性は想像によって支えられていて、想像する力なしに創造はできません。
創造につながっているような想像というのは、表層的なものではなく、
自分の存在全体と関わってくるものです。
想像のレベルが深くなってくると、平素は抑圧している内容が含まれ出すので、
悪とかかわってくることもあります。
悪は大変な破壊性を持っているものだし、理屈抜きに許されない悪があるのも確かです。
しかし、悪とは一筋縄でいかないもので、排除すればいいというものでもありません。
教師や親が悪を排除することによって「よい子」をつくろうと焦ると、
結局は大きい悪を招き寄せることになってしまうのです。
悪は不思議な両義性を持っています。
それを端的に示す例が、「悪と創造性」ということになります。
悪は取り返しのつかない破壊力を持つ一方で、未知のものを秘め、活力に満ち、
古い秩序を解体して、新しいものを生み出そうとする力にもつながっています。
『子どもと悪』河合隼雄/岩波書店
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