「考えることが苦手な子」っていますよね。
何かたずねると、どこから飛んできたのかわからない言葉や数を言い、間違えたと気付くと、さらに関係のない言葉や数字をパッパと口にします。
その間、考えた形跡はなし。
もちろん答えは間違っています。
考えることが苦手になるには、そのもととなったさまざまな原因があるはずです。
それにしても、
「考えることがちょっと苦手 →
親や周囲に呆れられたり、叱られたり、笑われたりする →
考えなくてはならない場面に遭遇すると、気が急いたり、落ち込んだり、イライラしたり、逃げ出したい気分になるから、さらに考えない癖がつく」
という負のスパイラルに陥らないためにはどうすればいいのでしょう。
わたしが一番大切だと思うのは、それぞれの子の「今の判断」「今の好み」「今の気持ち」「今の嫌だという思い」「今の能力」といったものを、尊重してあげることです。
特に、反抗心やネガティブな感情や不満や疑う思いが自然に自由に表現できるようにしてあげることです。
もし、親御さんがわが子にすばらしいものをたくさん与えてあげたいと思い、こんなおもちゃ、こんな習い事、こんなお洋服、と選んでは与え、
「これをするといいよ」「これを食べるといいうよ」「このテレビを見るといいよ」「この本を読むといいよ」と、子どもが自分で何かを選ぶ前に先回りして、子どものすることを決めてしまったとするとどうなるでしょう。
おそらく、子どもによったら、言われるままにやってみたらそれほどいやではないし、それに反発するほどのエネルギーも自信も持ち合わせていないし、
ちょっともやもやした気分だけど、まっいいか、とそれに依存するようになるでしょう。
すると、まず、選んで判断する時点で、「どれが自分がしたいことかな?」と以前行った時の記憶と照らし合わせながらよく考えてみる体験がなくなります。
また、やってみてうまくいかなくても、自分が選らんだのでないから責任を感じません。
つまり、結果なんかどうでもいい、という態度になるのです。
すると、当然、何かしてその結果がどうなるかに無関心なので、推測したり、論理的に考えたりする力がとても弱くなるのです。
ここまでの話を読んで、「それはわかった。でも、それならいったいどうすればいいの?}と感じた方がいらっしゃるかもしれません。
教室の子たちを見ていると、考えようとしなかった子が考えるようになるまでに共通する道筋があります。
工作でもごっこ遊びでもブロックでも、他のどんな遊びでもいいのですが、大人から見ると呆れるくらいレベルが低い活動をたくさん繰り返す期間を経るということです。
物作りが上手になって、自分の考えを論理的にわかりやすく説明できるようになる子は、「折り紙をグチャッとしただけでキャンディー」なんて物作りをしていた時期を周囲の大人に気長に見守ってもらっている子たちでもあるのです。
自分では作らずに、親に作ってもらう作品を心から楽しみにして、「もっともっと」と期待する時期があった子でもあります。
そんなふうにアウトプットのレベルは気にかけず、向上することを急がずに、他の人のすることにあこがれたり、面白いなと感じたり、他の子とのやりとりを楽しんだりして、視野をどんどん広げていくと、自然に考えることが好きになっていくのです。
子どもを考えることが好きな子にしようと思ったら、身近にいる大人の視線の先、興味の方向がどこに向けられているか、が重要だと感じています。
大人がわが子がどんなアウトプットをするかばかりに関心を向けていれば、子どもは自分の頭の中でイメージしたり考えたりする時間を取らずに行動するか、過去に聞いたことを口にするか、とにかく外にアウトプットすることにばかり気持ちを傾けるはずです。
一方、大人が子どもではなく、身近な不思議や、物語の進行や、物の仕組みや数や図形の世界の面白さなどに関心を向けていれば、子どもの心はそちらに吸い寄せられて、気付かない間に想像を膨らませて、さまざまなことを考えるようになりますよね。