過去記事です。
小学2年生の子らのグループレッスンで。
『ピタゴラ装置②』の本にあった「放り出しカー」を作りました。
といっても、本にある材料とはほど遠い、ありあわせの材料で作るもんですから、
思う通りに動くはずもなく、失敗の連続で、位置を付け替えたり、
積み木の数を変えたり、もたもたもたもた……試行錯誤したあげく、
何とか、それっぽい動きが実現しました。
「やったー!」とピースサインをする子どもたち。
車から出たでっぱりが、シーソーの上の荷物を押して落とすと、
シーソーがでっぱりと一緒に台を斜めに押し上げて、
車の上の荷物を回転させて落とします。
本の図解にあったイメージでは、「これは簡単にできそう!」だったのに、
現実は厳しかったのです。
うまく積み木が落とせて、シーソーが上がっても、力が弱くてでっぱりを押し上げる
ことができないのです。
シーソーの材料の問題か、シーソーの長さの問題か、傾きを大きくすればいいのか、
車の側を改良する必要があるのか…
うまくいくのかどうかすらわからない……やりなおしの作業の連続にめげず、
子どもたちはがんばって作り続けていました。
『ピタゴラ装置 DVDブック②/小学館』の最終ページに、
慶應義塾大学の佐藤雅彦教授のこんな言葉がありました。
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ピタゴラ装置が今や多少知られるようになったせいか、
最近webや雑誌で、「ピタゴラ装置とはゴールドバーグマシンの一種で云々」
というような解説風の文章をたまに見かけることがあります。
そのたびに、私は小さな違和感を覚えずにはいられません。
誰もが、そんなことを知る以前に、あのような連鎖する装置に近いものを
子供の頃に夢想したり、それが高じて、消しゴムや本など手近なものを駆使して
稚拙ながらも連鎖反応を試したりしたことがあったと思います。
その時の面白さに向かう気持ちには、濁りも余計な知識もありません。
ただただ、純粋に連鎖する動きを作って試してみたいだけです。
その生き生きとした所為に比べて、それをゴールドバーグマシンの一種、と名前を
持ち出し、あたかもそれに対して理解が済んでいるようなふるまいは、
何かとてもつまらないことに思えてしょうがありません。
(略)
それは誰もが持っている『言語化されていない面白さを素直に感じる能力』を
自ら放棄することにもなり、世の中の文脈に依存した生き方に繋がってしまうと
感じるからです。
『ピタゴラ装置』DVDブック ②/小学館』 より
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あの映像からは微塵も感じられないのですが、ピタゴラ装置制作チームは、
「ビー玉ひとつでさえ、思うように坂をのぼってくれない」という現実の不自由さを
ひしひしと味わったようです。
佐藤教授の言葉を借りると「そんな現実を乗り越え、勢いよく、
不自由さをものともせず、物が無心につぎつぎ困難を乗り越えていく、
想像を凌駕する力にあふれた映像」を生み出したのです。
この文を読みながら、私は、先日レンタルショップで見た気になる光景と、
我が家で起こった小さな事件について思い出していました。
話が脱線するのですが、ちょっとこの話を挟ませてくださいね。
レンタルビデオショップで見た光景というのは、次のようなものでした。
若いお母さんらしき方が、DVDの棚にかがみこんで、
「どれにするの?これは?」と何度かたずねながら、DVDに手を伸ばす横で、
幼稚園の年長さんくらいの女の子が、立ったままよそ見をしつつ、
「それで、いいんじゃないの?」と気のない返事を返していました。
お母さんの手にあったのは、テレビアニメのDVD。
女の子は、ちらっと一瞬、DVDの表の絵を見てから、「じゃあ、それにしたらぁ?」と
無関心なまま。
若いお母さんらしき人は、慣れた様子で、ビデオを借りる手続きを済ませて、
店を後にしました。
テレビで見ることができるアニメをレンタルショップで借りるのはいいとして、
子どもの側に「それが見たい!」「借りたい!」という心の動きが少しも感じ取れ
なかったことや、そうした子どもの様子が何の違和感もなく、
母親らしき人に伝わっていること……そのふわふわと浮遊するような移動の様子が、
どこでもごく当たり前に見かける親子の姿なだけに、
何となく心に引っかかっていました。

我が家で起こった小さな事件についても話しますね。
でも、私の心の中には、レンタルショップで見かけた光景同様、
男の子がガラスが割れそうになったことに、びっくりしたり、シュンとしたり
私までが、現実からかい離して、どんな感情を抱き、どう考えたらよいのか
おかげで、ピタゴラスイッチの放送やDVDを見る大人も子どもも、
それで気分がスカッとしたり、スキッとしたり、
私の心に引っかかっていたこと、もやもやとくすぶっていたものの正体は、
わざわざ不自由と格闘しなくてはならない「現実」って必要なの?
飽き飽きしたり物足りないことはあっても、
そんな疑問を、つきつけられているように感じていることなのかも
なぜ、そんなふうに感じるのか、わかりにくいですよね。
河合隼雄氏が、子育てについて次のように語っておられました。
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どんな楽しいことでも、それが深いものであればあるだけ、苦しみによって
(『子どもと学校』河合隼雄/岩波新書)
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「くるたのしい」は、不自由な現実の世界にしかないもので、
「子どもと過ごすとき、手持ちぶたさの空白時間があると嫌だから、
「揉め事や嫌だから、さっさと謝って逃げるが勝ち」とか、
「子どもをけんかさせたくないから、遊びを制限する、習い事の時間を
「くるたのしい」事態を避けて、何でもうまくいってて、
好んで苦労するよう勧めているわけではないのですが、
子どもたちが、「現実って、みっともなくて、めんどうで、
やったけど、うまくいかなかったり、
誰も先の保障をしてくれないし、褒めてももらえないかもしれない。
と身を持って体感するのを邪魔しちゃいけない、と思っているのです。
それにはまず親が、子育ての「くるたのしい」現実を
現実って実際そういう不自由なものだから、だからこそこんなに魅力的で、