テレビで『めがね』をやっていました。
『かもめ食堂』に続く姉妹映画のようなふれこみでしたが、
最初は違和感がふんだんな感じでした。
これがバブル絶頂の時に発表されたのなら意味もあったでしょうが
日本だけ先進国の中で仲間外れのようにずっとデフレが続く世で
たそがれる必要があるのかという疑問です。
もう十分にたそがれている日本にもっとたそがれろというのか。
しかし、映画の中ほどでドイツ語の詩が披露されると、あれ、
これはこういうことだったのかと全体像が見て取れるように
なった感じです。
世の中金をため込むことをやめ何も持たないという潔さがあれば
こんな縮こまった感じの国にはならないでしょう。
こんな考えをしていてふとまた思い当たることがありました。
今の100分DE名著は般若心経ですが、この内容が新鮮でそういう
ことだったのかというものです。
般若心経は昔から興味があり、色々な解説本を読んできましたが、
その内容もすべて知っていたつもりですが、このそもそもの構造は
初めて知ったようなのです。
釈迦がいて、観音菩薩がいて、シャリープトラがいるという最初の
構造から説明されることはまれです。
しかし、この短い経典のなかに舎利子という固有名詞が二回もでて
きて注目を集めます。
私もこのことを法事で会った菩提寺の住職に訊ねたのですが、この
100分DE名著の内容のように明確な答えではありませんでした。
ありきたりな信徒代表として我々仏教を学ぼうとする者すべての
代表として呼びかけてるんだとの解説でした。
私にはこの短い経典の鍵となるものがこの舎利子ではないかと
長年思い続けていました。
なぜ二回出てくるのか、その答えとして100分DE名著の観音菩薩と
釈迦と舎利子という構造を示したことでその疑問が解けた感じが
したのです。
めがねのドイツ語の詩も人生で背負い込み過ぎた荷を下ろすところで
そういうことだったのかと思えました。
もちろん映画の意味とかテーマとかというより、般若心経の構造が
解ったことでその意味するところが分かったように監督が撮りたかった
構造が解ったということです。
そして、日常においてこの構造がまた解った感じがした出来事も
最近ありました。
それはランナー同士理解しあえたこととか、スキーヤー同士で
同じ体験をして距離感が縮まった経験とかそんな諸々の構造と
出会いと人とのかかわりが問題と答えにつながってるということ
です。
結果が見えてもそれが全てではないし、答えが解っても学べたとは
限らないという構造もあるのですが、知るということと欲求は絶えず
あり、満たされることはありません。
持ち続けるということが大事なのでは。
荷物は下したとしても。
『かもめ食堂』に続く姉妹映画のようなふれこみでしたが、
最初は違和感がふんだんな感じでした。
これがバブル絶頂の時に発表されたのなら意味もあったでしょうが
日本だけ先進国の中で仲間外れのようにずっとデフレが続く世で
たそがれる必要があるのかという疑問です。
もう十分にたそがれている日本にもっとたそがれろというのか。
しかし、映画の中ほどでドイツ語の詩が披露されると、あれ、
これはこういうことだったのかと全体像が見て取れるように
なった感じです。
世の中金をため込むことをやめ何も持たないという潔さがあれば
こんな縮こまった感じの国にはならないでしょう。
こんな考えをしていてふとまた思い当たることがありました。
今の100分DE名著は般若心経ですが、この内容が新鮮でそういう
ことだったのかというものです。
般若心経は昔から興味があり、色々な解説本を読んできましたが、
その内容もすべて知っていたつもりですが、このそもそもの構造は
初めて知ったようなのです。
釈迦がいて、観音菩薩がいて、シャリープトラがいるという最初の
構造から説明されることはまれです。
しかし、この短い経典のなかに舎利子という固有名詞が二回もでて
きて注目を集めます。
私もこのことを法事で会った菩提寺の住職に訊ねたのですが、この
100分DE名著の内容のように明確な答えではありませんでした。
ありきたりな信徒代表として我々仏教を学ぼうとする者すべての
代表として呼びかけてるんだとの解説でした。
私にはこの短い経典の鍵となるものがこの舎利子ではないかと
長年思い続けていました。
なぜ二回出てくるのか、その答えとして100分DE名著の観音菩薩と
釈迦と舎利子という構造を示したことでその疑問が解けた感じが
したのです。
めがねのドイツ語の詩も人生で背負い込み過ぎた荷を下ろすところで
そういうことだったのかと思えました。
もちろん映画の意味とかテーマとかというより、般若心経の構造が
解ったことでその意味するところが分かったように監督が撮りたかった
構造が解ったということです。
そして、日常においてこの構造がまた解った感じがした出来事も
最近ありました。
それはランナー同士理解しあえたこととか、スキーヤー同士で
同じ体験をして距離感が縮まった経験とかそんな諸々の構造と
出会いと人とのかかわりが問題と答えにつながってるということ
です。
結果が見えてもそれが全てではないし、答えが解っても学べたとは
限らないという構造もあるのですが、知るということと欲求は絶えず
あり、満たされることはありません。
持ち続けるということが大事なのでは。
荷物は下したとしても。