先日のNHKの千利休の特集では、お茶の専門家や焼き物の専門家が
まるで出ていないのに、千利休を語るというの不自然な展開で、
全然食い足りない番組でした。
そう、BS歴史館という番組です。
視点が下剋上ということで、それでも千利休の専門家や彼について
小説を書いた作家とか、せめてそんな立場の人も出さず、禅の世界も
茶の湯を武士も楽しんだというのは新種の文化だからというのは
余りに乱暴な気がしました。
その新種の文化も今でも器や茶という道は残っています。
当時の名器は今では博物館で国宝となっていますし、日本では戦国時代
から多くの戦火をかいくぐり、第二次世界大戦という空爆を受けても
中国ではなくなっているものが日本では残っているというこの文化の
精妙さを不思議に感じます。
そもそも千利休が作った茶の湯の道とは禅の世界のと詫び寂びと
言った宇宙観もお茶を飲むのにいちいち作法を作り、意味を持たせた
だけで、そもそものお茶の味や香りを味わうために必要なこと
でしょうか。
それを道としてあらわしたから現在まで残ってしまったというただの
権威主義と何かに頼らなければ楽しめない日本の習い事主義の典型
を作ってしまったのではないかという文化的な考察などが完全に欠落して
千利休を知る初歩的な入口に立っただけの番組でした。
道といえば老子です。
日本は海外から導入した文化を巧みに変化加工して発展させてきました。
茶も道にして、中国にはない飲茶法を今に伝え、それを生業にする人が
今もいるというこの文化こそに語り合う意味があると思います。
それを時の権力がどう使いどう処分されたかというのはほんの一部でしか
ないのです。
禅の世界と茶の湯を道として宇宙の上にある物としてとらえて表現して
見せた世界観は日本人にはある文化を吸収して変化応用して見せる洞察力
で、これは世界中どこにもないものであり、日本人的感覚として文化応用力と
その使用方法として世界にアピールしていいものでしょう。
それはワビサビなどという全ての虚飾を捨てた世界という局所的なもので
なく、道としてあらわす方法論であり、元祖老子をも超えた超然とした文化
として誇るべきものではないでしょうか。
まるで出ていないのに、千利休を語るというの不自然な展開で、
全然食い足りない番組でした。
そう、BS歴史館という番組です。
視点が下剋上ということで、それでも千利休の専門家や彼について
小説を書いた作家とか、せめてそんな立場の人も出さず、禅の世界も
茶の湯を武士も楽しんだというのは新種の文化だからというのは
余りに乱暴な気がしました。
その新種の文化も今でも器や茶という道は残っています。
当時の名器は今では博物館で国宝となっていますし、日本では戦国時代
から多くの戦火をかいくぐり、第二次世界大戦という空爆を受けても
中国ではなくなっているものが日本では残っているというこの文化の
精妙さを不思議に感じます。
そもそも千利休が作った茶の湯の道とは禅の世界のと詫び寂びと
言った宇宙観もお茶を飲むのにいちいち作法を作り、意味を持たせた
だけで、そもそものお茶の味や香りを味わうために必要なこと
でしょうか。
それを道としてあらわしたから現在まで残ってしまったというただの
権威主義と何かに頼らなければ楽しめない日本の習い事主義の典型
を作ってしまったのではないかという文化的な考察などが完全に欠落して
千利休を知る初歩的な入口に立っただけの番組でした。
道といえば老子です。
日本は海外から導入した文化を巧みに変化加工して発展させてきました。
茶も道にして、中国にはない飲茶法を今に伝え、それを生業にする人が
今もいるというこの文化こそに語り合う意味があると思います。
それを時の権力がどう使いどう処分されたかというのはほんの一部でしか
ないのです。
禅の世界と茶の湯を道として宇宙の上にある物としてとらえて表現して
見せた世界観は日本人にはある文化を吸収して変化応用して見せる洞察力
で、これは世界中どこにもないものであり、日本人的感覚として文化応用力と
その使用方法として世界にアピールしていいものでしょう。
それはワビサビなどという全ての虚飾を捨てた世界という局所的なもので
なく、道としてあらわす方法論であり、元祖老子をも超えた超然とした文化
として誇るべきものではないでしょうか。