King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

猫町って

2013年05月04日 12時41分22秒 | 日々のこと
連休もよいよ佳境の土曜日の朝は、ヴェートーベンのピアノソナタ
ではじまりました。

ジャズのようなわざとらしさやフォークのような昔語りのお年寄りの
好みとも違い、誰ともそれほどの接点を強要しないし、クラッシック好き
にはそれはそれでひとまず聞かせる曲であり、何とも休日の朝に
ぴったりです。

それと同様、朝の日経の文化欄の村上文学に寄り添う音楽という
記事がとてもこの朝、興味を引く内容でした。

そもそも珈琲や食べ物に薀蓄を傾けるグルメ志向という言葉が跋扈するように
なったのはいつぐらいのことでしょうか。

不必要な枕詞が用いられるようになったり、要らないお墨付きが余計
本来のあるべき姿から遠ざける結果になっている気がします。

最近はその広告がより眉をひそめるようなものになっており、消費者の質も
おのずと下がり、本来求められるべき食の安全を不当に貶めていると感じ
ます。

今朝の文化欄の村上云々も読みようによってはこの連休に私は村上の文学に
親しんだという見栄を張るにはもってこいの内容になっており、さもそれを狙って
書いたのかと思うようなものなのです。

そんなことを思うのは、当店のお客様でブレンドの説明文の猫町ってなんですか
と聞いた人のことを思わしたからです。

ハルキストなる人たちは熱狂的に作家を讃えてはいるものの果たして本人は
どこまでそれを堪能しているのかと疑問を抱かざるを得ないような人も多いと
感じます。

それは別にハルキストに限ったことではなく、自分は何かの熱狂的なファンですと
とうとうとその熱狂ぶりを吹聴する人も別にその中身たるや惨憺たるものという
事例と似ています。

それほど普段物事を考えたり、人生についてその深遠なる生き語りをしてきても
いないのに、何かについて深く語るなどそもそもおこがましいのかもしれません。

そんなことから食べ物や飲み物といった日常的なものに本物のとか究極のといった
修飾子を付ける人を見ますが、その本性と品格、知性を疑ってしまいます。

多分、そういうものを安易に使う人は、今朝の村上文学について文化欄を読んで
すっかりその文学世界を味わった気になって語るのだろうとふと思ってしまいました。

世の中、当店のブレンド説明文の猫町のくだりを読み、にやりとしてガロや
萩原朔太郎の話をする人もいるということを証言しておきます。

でも、実は村上春樹すら読んでない人も多く、読んだと称していても猫町って何って
聞いちゃう人の方が多いというのが現実です。
コメント
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