そういえば昨日は9月9日で救急の日であった。大学の救命センター勤務時代は毎年この日は何かしらのイベントに借り出された記憶がある。講演を依頼された年は、映写スライド作成が発表時間に間に合わず、駆け込みで会場に入ったこともあった。また自分は教授の講演のスライドもよく作ったが、スライド映写の順番を間違えて渡してしまい話が前後してゴチャゴチャなり冷や汗をかいたこともあった。あれから4年になるが今では救急の日だろうがなんだろうが、毎日の日常診療の繰り返しに埋没している。特に感慨深いことはないが懐かしい思い出ではある。
つい先日、うちの近くの病院が閉院した。 時々、患者さんの入院を気軽にお願いしていたので今後は大変困るのである。うちのような無床診療所では、帰宅させるには少し不安があり2~3日の経過観察入院が必要な患者さんという場合がよくある。このような場合、大病院では敷居が高く、「ちょっと数日入院、点滴お願いします」と気軽にお願いできるような小病院の存在はありがたいものであった。どうやら国の施策として開業医と大病院の二極化になっていくのだろうか? 現場から言わせるとそれは大変困る。しかもますます医療費は抑制されてきており、ますます閉院する医療機関は増えていくだろう。日本の医療は崩壊していくようである。
案の定、最初はお互いNHK勤務時代の話からはじまった。少しずつ黒柳色が強くなりそうになったが、相撲への思い入れは極めて情熱的であり、過去の名勝負の実況解説を語り始めると杉山節は延々と留まる事はなかった。彼の頭の中には名勝負のビデオが残っているため、時を経てもそれがいつでも再現できるのだ。また相撲のいろいろなエピソードを語る中で「あの勝負は昭和○○年何月の△△場所の何日目で・・・」と時系列もすぐに口をついて出てくるのである。こちらではその日にちが本当に正しいのかどうかは瞬時にはわからない。TV番組で日時を言うのはリスクが大きい。もし間違っていても以後訂正が効かないのでよほど記憶に正しく刷り込まれていないと発言できない芸当である。ここまでされると否が応でも彼のコメント内容に信頼性がでてくる。結局、黒柳氏に潰されることはなかった。むしろ彼の話の拡散度合がすごかったので、司会者は彼の話を誘導しながら時間をまとめることに終始したようである。見ていて「話がきちんとまとまるかしらん?」と少しハラハラしたが、黒柳色に染まることなく杉山氏の名調子が聴けてとても面白かった。
先日たまたま徹子の部屋をみたが、ゲストは相撲解説者の杉山邦博氏であった。彼は元相撲実況解説者である。50年以上も相撲に携わっており相撲に対して評論家でもあるため一家言をもっている。過去、相撲賭博、八百長事件、暴力事件などでのコメントでは、彼の一連のコメントはかなりの辛口で厳しい批評であった。TVのコメンテイターなどが「まあ今の時代、型破りな横綱がいてもいいんじゃないですか」などと割りといい加減なコメントをする中で、彼は「相撲は格闘技ではない」、「日本の伝統文化の継承である」、あるいは「抑制の美学である」といい続けてきた。彼は伝統という「型にはめる」ことが相撲であり、「型破り」なことは相撲ではないと考えている。このことは自分も共感できるし、なによりも発言が過去から一貫してブレていないので信用できる。そんな謹厳実直である彼が徹子の部屋へのゲスト出演である。黒柳氏に潰されなければいいなあと思ってTVを観ていた。
彼女は「若手芸人つぶし」といわれている。若手芸人がゲストの場合、いいインタビュアーなら、前振りをして最後の「オチ」はゲストに言わせるように仕向けるはずである。つまりゲストが目立つように花を持たせるのである。しかし彼女の場合はゲストのエピソードやギャグを前振りからボケからツッコミまですべて自分で最初に話してしまい、「・・・ということなんですけど、あぁた、これはホントなの?」とようやくゲストに話を向けるものだから、若手芸人のゲストも「・・えっ、あぁ、まぁ、そうです・・」と話がしぼんでしまうのである。だからゲストの面白いところが見られる前に、すでに彼女の個性が前面にでてしまうので、「彼女の番組」になってしまうのである。おとなしくて話下手のゲストの場合のならそれでもよかろう。しかし自分が興味のあるゲストの場合ではそのゲストの知りたい側面が見られないまま終わってしまうので消化不良になる。
先日、久しぶりにTVで徹子の部屋を見た。黒柳徹子氏は昔NHKのアナウンサーだったようである。確かに喋りは達者であり過去のバラエティなどでの司会も上手である。しかしながら彼女への評価であるが、インタビュアーとしてはあまり上手とはいえない。彼女はゲストのいいところを引き出してインタビューしているのではなく、自分の個性でゲストの色をすべて染め直しているといわざるをえない。アクが強すぎてゲストのいいところが見えてこないのである。徹子の部屋がこれだけ長い間続いている理由はゲスト主役の番組ではなく、彼女そのものの番組になってしまうためであろう。時に彼女はゲストと話題のタイミングがかちあわず頓珍漢な受け答えをする。インタビュアーならば失格であるが、この番組であれば彼女の個性として「はずした」対応が面白いといえば言えるだろう。
もう9月になりました。今年の夏も暑かったですが猛暑日は少なかったかもしれません。しかしながら今週は台風が接近しており、台風の東側の地域である関東も南風の影響で、モワッと湿度が高く、暑い日が続いています。暑くても乾燥していると割りと我慢できるのですが、この湿度の高さは不快ですね。そう言えば昔、気象用語で「不快指数〇%」といっていましたが最近ではあまり耳にしなくなりました。どこにいったのでしょう? 自分が小学校の頃の夏はもっと過ごしやすかったような記憶があります。簾、打ち水などの工夫もあったし、スイカやカキ氷も楽しみでした。毎日食べていましたね。昔は氷メロンが好きでしたが、以後、氷抹茶宇治金時が好物になりました。あっ、そういえば今年はまだカキ氷を食べていない・・・。もうたべるのは遅いでしょうか? 季節の変わり目、風邪にご注意!
近所の高校の健診に年1回お手伝いにいっている。数年前のことであった。そこの事務から型のごとく「出張依頼書」が届いた。「○年○月○日の健診に出動を依頼する」という文面である。そこに同意したということで自書でサインして印鑑も押した。自分が記載したものはサインだけである。ところが健診前日に急に高校から「もう健診ははじまっていますが、まだ来れないのでしょうか?」と電話があった。予定表をみると健診は明日である。どうやら事務職員が出張日を間違えた書類を送付したようであった。往診中であったが急遽、駆けつけて健診業務をおこなった。特に事務から何の説明もお詫びもなかった。まるで現場では私が遅刻したような雰囲気である。まあいいやと思っていたら、しばらくしてそこの高校事務からまた封書が届いた。中を見ると新たなる出張依頼書が入っており「前回の依頼書は書類不備です。再度同意欄にサインして送り返してください」とあった。手紙の文面はいかにも私が間違った書類を作成したような書き方であった。オイオイ、健診の日付を間違えたのはそちらでしょうに? しかも自分たちの誤りを詫びるような表現は一切なく「上から目線」の書き方である。これは対応した事務職員の常識がないのか、あるいは公務員としては正しい姿なのか自分には理解しかねる。いずれにせよ怒髪天をついたので・・・そのまま無視した。相手にするとこちらの精神衛生上よくなさそうである。
また某役所から書類記載不備で証明書が送り返されてきた。今回は氏名欄に捺印がなかったからだそうである。名前を自筆サインにしているのにだめだそうである。印鑑押印については、個々の役所によって細かくやり方が異なるので大変である。統一してくれないものか? どだい捺印必要といっても三文判である。PCでも捺印ができる今の時代、三文判の使用は何の意味があるのだろうか? 現状の慣例ではとりあえず氏名をゴム印にしたらその横に印鑑の押印は必須である(これも変な理屈だが)。昔はシャチハタはすべて禁であったが、最近では認められてきた。しかしいまだに印肉の押印にしろと突っ返される場合もある(この判断も窓口担当者の胸先三寸のような印象もある)。今回、記載者氏名の欄に自筆でサインをしたので押印は不要だと思っていた。というのは我々が書く一番重要な証明書である死亡診断書は、もうすでに10年以上も前から自筆サインがあれば印鑑押印不要ということになっているからである。一番重要な書類には押印が不要で、あまり医学的に重くない証明書には印鑑が必要とは到底理解できない。絶対にお役所の書類業務は簡素化できるはずである。誰もしようとしないだけである。