バスが加速すると慣性モーメントが働くため、前方に向かって歩いている高齢女性には後ろ向きのGがかかる。つまり加速している車ではシートに背中が押し付けられる物理現象のことである。この女性はシートにたどり着いたその瞬間にこのモーメントがかかり着座動作が一瞬だけ遅れたのである。この瞬間に新たに乗り込んできた女性が着座したのである。着座できなかったその高齢女性は、一瞬あたりを見渡し「ちっ」と舌打ちをしてバツが悪そうな顔をした。その直後、何をするのかと思ったら、わざとらしく急にしゃがみこんで尻餅をついたのである。自分にはこの女性が何をしているのかわからなかった。するとこの女性は「あーっ、バスが、バスが急発車するから転んだよー」と大きな声をあげた。わざとらしいヘタな芝居である。
数年前の話である。区役所で用足しのためバスに乗った。車内はちらほらと立っている乗客がいる程度ではあったが、座席はすべて埋まっていた。自分はバスの後方あたりでつり革につかまって立っていたが、自分のすぐ横には高齢女性が手すりにつかまって立っていた。平日昼の時間帯である。乗客のほとんどが高齢の方であった。着座している乗客もすべて高齢者のようで、この立っている高齢女性に席を譲る気はなさそうである。バスがいくつ目かの停留所につくとバスの前方の席が一つ空いた。その立っていた高齢女性はバスの後方から、座ろうとしてその席に向かったのである。ところがその停留所からやはり年恰好も似たような高齢女性がバスに乗り込んできた。その女性も席にすわろうとして小走りにその席に向かったのである。こうなるとまるでイス取りゲームである。ほぼ同時に二人はイスのところにたどり着いたのだが、次の瞬間、バスが発車した。運命の分かれ道であった。
教科書に名前の残る先生といっても決して今でも華々しい毎日を送っているわけではないのは理解できる。あるいは当時は脚光をあびて華々しい診療もされていたのかもしれない。自分がお会いしたときはおいくつぐらいであったか? もしかしたら80は越えていたかもしれない。当時もうすでにリタイアしてもおかしくないご年齢であった。小川先生は日がな1日レントゲン写真を見続けて所見をカルテに記載していた。自分は午前中、全病床の病棟回診をするので業務が多く小川先生の横顔をちらりと見るのみで、たいしたお話もしたわけではなかった。1年ほどたって結局小川先生とはきちんとお話をしないまま自分は人事異動になり、それが小川先生とお会いした最後となった。あれから30年、今でも小川培地の検査法は行なわれている。自分のクリニックに結核疑いの患者さんが来たときには検査用紙の小川培地の欄にチェックをいれるのであるが、その時はいつも「ああ、あの時もっと検査法の開発時のいろいろな話を聞いておくんだった」と悔やまれてならない。
看護師がその高齢の先生に私を紹介した。「今度週1回くることになった吉田先生です。あっ、こちらは小川先生です、ほらあの小川培地の小川先生ですよ・・・」 私はぶっ飛んだ。あの学生時代から試験では必ず出る超、超有名な小川培地の生みの親である小川先生が目の前にいたのだ。まだ生きておられるとは思わなかったし、またここでお会いできるとは思わなかった。感激したと言うよりもむしろ少し寂しい感じもした。自分の名前を冠した検査法で超有名な先生が、高齢であるとはいえ、どこかの研究所の所長とか顧問とかではなく、郊外のうらぶれた(失礼)病院でただ黙々と入院患者の胸部レントゲンを毎日読影し続けているのである。「あっ、よ・吉田です」とぎこちない挨拶をしたが、小川先生は「あぁ、そう・・」といってまたすぐ向き直りレントゲン写真を見続けたのである。
遡ること30年前の話である。救命センターに勤務して間もない頃であった。週1回アルバイトの病院にいっていた。医局から紹介されたその病院は埼玉の奥のほうの町にあった。池袋から私鉄の準急で1時間ほど乗り、とある駅でおりるといつもそこには病院からの迎えの車がきていた。その病院は車で20分くらい郊外に向かった約100床程度のいわゆる老人病院であった。病院周囲には木々が生い茂り、のどかで見渡す限り畑が続いた見晴らしのよい病院であった。慌しい救命センターでの診療の中で週1回だけ落ち着いたのどかな診療ができる病院である。しかし落ち着いたとはいうものの、最新の大学の救急医療からくらべると何とも活気がなく時代に取り残された感じもしたのである。実働勤務医は自分を含め3名ほどであった。その病院の2階の病棟の一角ではいつも何十枚もの胸部レントゲン写真を黙々と見続けている白髪で高齢のドクターがいらっしゃった。
医療従事者なら小川培地といえば誰でもああ、あれかとピンとくるはずである。自分が学生時代のころから結核の検査といえばツベルクリンかガフキーか小川培地のいずれかであった。最近ではM-GIT検査やらPCR法などの新しい検査もでてきたが、確定検査として小川培地における診断的価値は今でも有用である。結核は今も決して稀な疾患ではない。日本は世界からみればいまだに中等度の結核蔓延国だそうである。自分は大学救命センター時代に感染対策委員をやらされていた。当時、大学病院の臨床科の中で開放性結核の患者を診療する機会が多かったのは呼吸器内科と救命センターだったのである。何故救命センターに多かったのかというと陳旧性肺結核(過去に結核に罹患し、その後とりあえず排菌しないで何年も安定しているもの)の高齢者や路上生活者の方が何かしらの疾患や外傷で具合が悪くなり救急搬入されるという機会が多かったためである。
ゴールデンウイーク中、近くの石神井井川の川べりを散歩した。川べりの一画に大きな観音様がまつられているところがある。時々ここを通りかかるときに、お参りをしていくことがあるが、先日驚いたことがある。賽銭箱があるのでお賽銭をいれようとしたところ、賽銭箱の前面が濡れているのだ。そしてそれは下に滴り地面の上に水溜りの痕がある。この水溜りの大きさや濡れているところの地面からの高さをみると、間違いなく「犬のおしっこ」である。最近では野良犬はみかけないので、飼い主が犬の散歩の途中にに賽銭箱におしっこをさせたのであろう。飼い主のマナーというか何というかコメントのしようがない。このようなことがあるとすべての愛犬家全体の評価を落とすことになる。犬のおしっこに向かって手を合わせてお参りしたが、なかなか妙な気分であった。飼い主やワンちゃんに罰があたらないといいのだが・・・。
ゴールデンウイークになると、TVでは「本日の高速道路はくだりが20数kmの渋滞・・」などと気の遠くなるような行楽情報が放映される。あの映像をみるととたんにやる気が失せて「あぁこんなときの遠出はゾッとする。絶対どこにもいかない」といつも思う。でも家にこもっていても鬱屈するので外出したくなる。天気もよければこんなときこそ普段は車での遠出ができないので車で遠くにでかけたくなるのが人情である。きっとみんな同じ思考背景なのかもしれない。大昔の「民族大移動」と揶揄された時代からすれば幾分「分散型」にはなったのであろうが、それでもかなり大きなマスが動くのである。まあ高速道路も外環道路などのバイパス路線の増設がなされ、一時期の戦慄の走る渋滞は徐々に緩和されてきたようだ。しかし緩和されたとなると、自分のように「出控え」ていた人達が遠出するので交通量は以前よりも増えて、結局また同じようなひどい渋滞になるのであろう。ああ青空の下で気持ちよく車を走らせることができる時代はいつになるのであろうか?
そのタイ・ラーメンの屋台であるが結構な人気であった。職員が白衣のまま買いにいくもので、院長から白衣外出禁止令がでた。徒歩1分、というよりも救命センターの医局のすぐ前のところなので着替えていくのも面倒である。しかし禁止令がでたならやむをえない。この時期、医局へ発泡スチロールの丼で持ち帰ったタイ・ラーメンを「おお、熱い、辛い、すっぱい、旨い」といろいろな表現をしながらズルズルとすするのが楽しみであった。屋台は他にも焼きソバやたこ焼きやお好み焼きなどがあった。まあどれもそれなりの味であり極端にまずいものもなければ極端に旨いものもなかった。その中では珍しいということもあったが味の面では飛びぬけていた。昼に1杯、夕方にもう1杯と1日2回食べたことも1度や2度ではなかった。ツツジでいえば駒込駅のツツジだって見事である。根津神社ツツジ祭りのツツジについては、インパクトという点から言えば残念ながらやはりタイ・ラーメンのほうが強かったのである。