吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています。診療日には毎日更新しています。

悪魔の証明 その2

2017年04月11日 05時33分52秒 | 日記
 病気を見つけるのも難しい。症状がなくても重大な病気もある。だから特定健診やガン検診があるくらいである。それでも見逃すこともある。
 病気が「ある」ことを見つけるのも難しいが、反対に「病気がない」ことを証明するのはまさに不可能である。世の中のありとあらゆる検査、それは保険診療や自費かかわらず、また高額検査であろうとなかろうと、また苦痛を伴う侵襲的検査であろうと一切関係なく、すべての検査を網羅してまで行い、それですべてが陰性ならば、「たぶん病気はなさそうですね」と言えるくらいである。それを「病院で病気がないことをちょっと診断(証明)してもらって来い」というのは無理難題である。でも一般の人には「ちょっと」ですむくらいの感覚なのであろう。まさに「悪魔の証明」とう言葉にピッタリである。
 入学時や就業時の健康診断書は学業や就労に耐え得るかどうかの健康状態を診るだけで「病気がないこと」を証明しているのではない。ここの違いは重要である。

 さてこんな患者さんもいた。高齢の方である。「認知症があると銀行の融資が受けられないので、銀行から認知症がないのを病院でちょっと今日中に診てもらってきてくれといわれた」という方がきた。オイオイ「ちょっと今日中・・」はないだろうと思った。

悪魔の証明 その1

2017年04月10日 06時06分55秒 | 日記
 国会で安倍首相が「ないことを証明するのは『悪魔の証明』であり不可能である」といった。つまり総理夫人に寄付行為があったかなかったかということで野党の質問が「総理夫人が寄付などしていないと言うならば、していないことを証明しろ」と詰め寄ったからである。
 でも「ないことの証明」とは確かに不可能である。このような証明のことを「悪魔の証明」というのだと初めて知った。
 例えば100検体の母集団のうち「ある」ことの証明は一つでも事象があれば証明されたことになる。しかし「ない」ことの証明は残り99の検体をすべて検証する作業が必要であり、しかも今後「起こりえないこと」をも証明をする必要があるので、これはほぼ不可能である。
 
 自分の業界でもこの悪魔の証明を迫る患者さんもいる。「関連会社に出向になったが、病気が何もないことを診断してくれないとそこで働けない。会社から病気がないことの診断書をちょっと(医療機関に)行って書いてもらってきてくれと言われた」と来院することがあった。 
 こちらは絶句である。これこそ「悪魔の証明」である。病気をみつけるのも大変である。しかし病気がないことを証明するのは無理である。ガンなどの病気を見つけるのも大変であり、早期の状態で発見などというのも難しい。たまさかガンがなかったとしても「あなたの身体は全くの健康体です」とも言いきれないのである。他に何か病気はあるかもしれない。

無謀自転車運転 その4

2017年04月08日 04時46分44秒 | 日記
 自転車には走行ルールは実際はあるのだが、ないようなものである。そもそもそれが問題なのであるが、今回、自動車の運転のルールを適用するなら「車線変更する場合は車線変更する〇〇m(済みません忘れました)手前から方向指示器を出し、追い越しをかけている車のないことを確認してから車線変更する」のである。
 つまり彼女は「追い越しの車輛がないこと」の確認をせずに車線変更をしたのである。彼女に非があるわけである。
 それを追い越しをかけているこちら側に非があるような物言いであったのである。これは完全に彼女のアウトなのである。でもなんともこちらが悪者のようなそぶりである。
 今回の彼女の態度をみるにつけ、「ああ、これが世の中の自転車運転者のスタンダードなのか」と思ったらぞっとした。
 なんだか自転車は歩道の上では「そこのけそこのけ私が一番」的な感覚なのである。やはり自転車も試験・免許制にしてルールで縛らないと、性善説のマナーだけではどうにもならないような気がする。
 あ でもルール作っても今のように警察が自転車の取り締まりをしないのであれば絵に描いた餅になるだろうけど・・・。
 なんとかしてよ、自転車運転。

無謀自転車運転 その3

2017年04月07日 05時54分31秒 | 日記
 先日、自分は商店街を自転車で走行していた。すると自分の前を別の自転車が走行していた。見ると若いお母さんが自分の前の座椅子に一人と自分の後ろの大きな椅子にもう一人の子供を乗せてフラフラ走行しているのである。ゆっくりとしたスピードであるので、自分は右側から追い越そうとした。
 
 次の瞬間、急にその自転車は右折して自分が追い越そうとしている前を横切ろうとしたのである。急ブレーキをかけたが自分前輪が彼女の自転車の前輪の右側にわずかに触れた。損傷はまったくなくケガもない。
 彼女は商店街の道路右側にあるコンビニの自転車置き場に気が付きそこに自転車をいれるべく急に右ハンドルを切ったのである。
 彼女は言うに事欠いて「あ~なんて危ないの~」とまるでこちらの運転を無謀であるかのような口ぶりで言い始めた。
 彼女のまなざしは「子供が怪我したらどうしてくれるのよ」と言わんばかりであり、自分には非がないような表情であった。この「勘違いの勢い」にはこちらも怯んでしまいそうであった。

無謀自転車運転 その2

2017年04月06日 05時58分14秒 | 日記
 なぜ歩道上で自転車がヒエラルキーの最上位にくるのかというと、自転車にはルールがないからである。
 一応1~2年前、走行中スマホは禁止だとかいろいろ道交法のルールが決まった
 。もちろんそれ以前にも自転車のルールはいろいろあったがそんなものはないに等しかった。
 そして新たに法改正直後は取り締まりはすこしあったが今では警察による取り締まりなど「皆無」である。スマホ運転、自転車並走、二人乗りなど、以前同様当たり前に復した。たぶん警察もこんなものつかまえても個人の業績にならないので取り締まらないのであろう。とにかく自転車は取り締まることがないので野放しなのである。このままひどい状態だとやはり自転車も免許制にしたほうがいいんじゃないのと思うのである。というと「足腰の悪い人はどうしたらいいのか」とか文句が出そうであるが、本来足腰の悪い人が乗ったら余計に危ない乗り物であるということが理解されていないのである。
 弱者のためとはいえ利便性ばかりの追及は如何なものかと。


無謀自転車運転 その1

2017年04月05日 06時11分39秒 | 日記
 最近、都内では随分自転車の数が増えてきた。
 かなり高齢の方では「最近、足腰が悪くなってきた。歩くのが容易ではないので自転車に乗っている」という方もいるのである。よく考えると、「ん?」と思うような理由である。
 自転車の運転・制御はかなり反射神経や運動能力を必要とする。運転中、いざという時には歩く時より以上にバランス感覚や運動能力が必要とされるのである。なので高齢の方の自転車走行は傍で見ていて怖いのである。
 前から感ずることであるが、最近無謀な自転車が目に付く。歩道走行はもちろん当たり前のようであるが、道交法上では「やむを得ない場合」に歩道走行が許されているのである。本来は軽車両なので車道走行が原則である。つまり歩道で走行する場合は歩行者が最優先なのであるが、歩行者を優先させている自転車などあまりいない。

安倍首相夫人 その5

2017年04月04日 05時43分00秒 | 日記
 さて安倍首相夫人の件である。彼女の実力は知らない。でも彼女の実力というかむしろ彼女の「肩書」の方に人が群がってくるのである。彼女も十分慎重に行動したほうが良い。
 好意的に寄って来る人ばかりではない。彼女、(換言すれば彼女の後ろの総理を)利用しようと寄ってきている輩も多い。
 しかし今はやりの言葉で言えば、彼女を利用すればいろいろな所ですり寄った者の思惑が「忖度」されるのである。換言すれば「便宜供与」を求めてすり寄ってくるということである。
 今回の小学校建設予定者である理事長もその類なのであろう。おそらく行政で彼女の名前でまさに忖度された結果の建設(条件付き)認可なのであろう。

 「虎の威を借りる狐」という言葉がある。すり寄ってくる者は自身が虎でなくとも狐でも何でもいい、要は得られた結果がすべてであると思っているだろう。
 実を取ってしまえば自分に実力があろうとなかろうと関係はない。いや、むしろ世の中の忖度結果を十分に利用したもの勝ちであり、狐であっても結果的に実力があることになるのだと思った次第である。

安倍首相夫人 その4

2017年04月03日 05時41分26秒 | 日記
 そのいくつか目に連絡を取った某企業では「うちでは学生相手の取引はしない。電話かけられてきてもこちらの業務の妨げになる。面会するはずもない。二度と連絡してくるな」とケンモホロロであった。そればかりでなく、結構辛辣な言葉もいくつか聞いた。
 先方の虫の居所が悪かったというよりも、今考えると自分の電話が学生気分だったのかもしれない。でもまあこれはいきなり営業を持ちかけた時の世の中の当たり前の反応なのである。
 その後、自分が医者になってすぐの時であるが、この製薬会社のMR(営業マン)が一番熱心に自分にすり寄ってきたので数年前の対応とのギャップに驚かされたのである。
 この時、もちろん学生時代の電話の相手と、このMRさんとは人は異なるが、利害関係が伴うとこのように態度が変わるのだと気が付くべきであった。人間おだてられてすり寄ってこられると自分を見失うものである。

 そんなこんなで改めて自分も実感したのである。
「仕事は自分の実力についてくることもあるがそれは稀で、ほとんど場合その人の肩書だけで判断されてついてくるものである」とわかった。
 そしてそれが世の中なのだと納得した。自分に実力があるとはもちろん思っていないが、世の中の評価とは表面的なものでなされるのだと思わざるをえなかったのである。

安倍首相夫人 その3

2017年04月01日 06時21分52秒 | 日記
彼のその言葉は強烈だった。自分はずっと忘れずに何年も記憶していたのである。そして自分も大学時代は、まあそこそこの依頼原稿があり医学雑誌に原稿を書いていた。さて10年前に大学を辞める直前まで、依頼原稿はついてきたのであるが、やめる寸前に彼のあの言葉を思い出したのである。さてやめたら今後原稿の依頼はどうなるのかなと待ち構えていた。やはり結果は同じであった。一篇の依頼原稿もなくなったのである。でもほとんど予想していたので何の哀しさもショックもなかった。

 でもよく考えれば大昔こんなことがあった。その時にすでに世の中の仕組みに気が付くべきであったが、学生時代の思慮の浅いころの話である。もちろん今の自分が思慮が深いというわけではないが、昔、医学生時代学祭のパンフレットにのせる広告を製薬会社に取りに行った時のことである。好意的に対応してくれた製薬企業もあり、いくつか広告はとれたのである。でもそう簡単に上手くはいかない。
 ある製薬会社に電話をしたところ・・・。