六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ものたちの競演・大道商人万歳! 

2008-10-15 12:04:03 | 写真とおしゃべり
 ものたちの競演・大道商人万歳! 

 私たちの回りには沢山のものがあり、私たちは必要に応じてそれらのものを取り上げ、必要な用材として用いる。
 それらのものはたいてい自分の回りに必要の度合いや用いる頻度に応じて配置されていて、それらをじっくり見ることはない。それらは常に、「私にとっての用材」であって、どこかそのもの自体であることを奪われてしまっている。

 

 しかし、それらが「私にとっての用材」という視点を離れるやいなや、それらはそのものとして、その存在を自己主張する。
 それは、便器が「泉」として自己主張をしたデュシャンの作品のようなものである。

 
 
 そしてそれらは時として美しいし、また、用材であったときにはなかった質量感をもって迫ってくる。
 とりわけその集合体は美しい。というより、集合体として現れることにより、用材としての役割が希薄になり、そのもののそのもの性がより強調されるのだ。

 
 
 ここに掲げたものはすべて売らんかなのものである。
 にもかかわらず、売り手の意志や願望を越えて美しい。
 これらの売り手に対してはまことに申し訳ないのだが、購買意欲とは無関係にただただ美しいのだ。 
 人間はものを集め、それらを流通させ、陳列し、消費を促す。
 そうしたエコノミーの過程が同時に美しさを伴うとしたら、人間の営みもまんざら捨てたものではない。
 世界中の市場で繰り広げられる商品の陳列に思わず圧倒されるのは私だけだろうか。

 

 ただし、こうした人とものに即した営みは今日ではナイーブなものに過ぎない。
 ここ提示した写真の範囲での売り手の努力、その結果とし生み出された美しさはあくまでも業者の経験によって手探りで生み出され継承されてきたものであろう。

 今日、TVなどで私たちの購買を迫るものたちは、購買者をあたかも科学実験の動物であるかのように扱う。音響学、色彩学、心理学などが動員され、消費者の必要性よりもむしろ、虚であれ何であれ、消費それ自体への志向を誘導するように迫る。
 「必要があるから買う」のではなく「買う必要がある」ようにさせるのである。

 

 それに比べたら、大道商人たちの陳列の技術は賞賛に値する。
 ものたちをこれだけ美しく見せるのは、しばしば、計算し尽くされたTVの映像を上回る。それは大道商人ならではのその臨場感において可能になるものだろうか。
 
 虚像として映像化された欲望の対象よりも、誰はばかることなく大道に並べられたものたちの方がはるかに美しい。
 でも買わなくてゴメンね。

 写真はいずれも、過日の今池祭りにて。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする