岐阜駅での遠足の小学生たちである。
授業から解放された子供たちの表情は明るく楽しげだ。
自分の子供の頃の遠足を振り返ってみる。
戦後の国民学校、小学校時代のそれは、行く先なども含めてほとんど記憶にない。
ただ、文字通り「遠足」だったことは覚えている。
つまり、今様に電車やバスで行くのではなく、歩いて出かけたのである。
その距離は高学年になるほど遠くへ伸びたはずだが、小、中学生の頃のそれはどこへ出かけたのかさっぱり思い出せない。
かといって楽しくなかった訳では決してない。
前夜にリュックサック(今のようにスマートなものではない)にいろいろ詰め込みながら、「あ~した天気になぁれ」と願ったものだ。
てるてる坊主を吊したこともあった。
そして、ワクワクしながら寝たものだ。
行く先やそこで観たものは覚えていないが、弁当だけは覚えている。
昔から食い意地が張っていたのだろうか。
主食はおにぎりである。
母は三角のおにぎりは握らなかったから、俵型かやや平たい円形のものだった。
中味は梅干ししかなかったが、ほかに、紅生姜や紫蘇を細かく刻み込んだものをご飯に混ぜて握ったものがおいしかった。
海苔で巻かれてはいなかった。海苔が登場するのはもっと後になってからである。
副食で一番楽しみなのはゆで卵であった。
当時、卵は貴重品で、遠足か運動会、或いは病気の時ぐらいしか口にすることが出来なかった。
それがまるまるひとつ食べることが出来るのだ。うれしかったなぁ。
1950(昭25)年ぐらいでも、卵かけご飯は贅沢で、大きなどんぶりに作って、父と私が半分ずつ食べた。
母は、私はいいからと手を付けようとしなかった。
その他の副食は覚えがない。あ、そうだ沢庵が付いていた。自家製の沢庵は今から考えると旨かったに違いないが、子供の舌はそれを賞味する術を欠いていた。
デザートは柿か梨だった。それらが身近にあったからだ。リンゴの時もあったが、今様にでかくて甘いそれではなく、小さめで酸味のきいた紅玉といわれるものだった(その紅玉も、その後品種改良されて、今は当時のものとは違うようだ)。
それらのラッピングは竹皮であった。それをやはり竹皮を裂いた紐で結び、さらには新聞紙で包む、それが一般的であった。
書いているうちに行った先なども思い出せるかと思ったが、やはり思い出せない。
ひとつだけ思い出したのが、大垣郊外に住んでいた小学生の頃、近くの金生山(山ごと石灰岩で化石も豊富)へ行ったことだ。もちろん徒歩である。
途中で、美濃赤坂線の列車に向かって石を投げるいたずらをし、それが発覚して問題となった。
首謀者と目され、親まで呼び出されて叱られた。
「石は列車には届いていない」と抗弁したが、もとより聞き入れられることはなく、強情な子だと判断された。
届かなかったのは事実で、あの距離では列車を狙ったのかどうかすら今となっては定かではない。
話が列車だけに脱線したようだ。
遠足に列車やバスを利用するようになったのは中学以降だろうか。それもあまり鮮明に覚えていない。
高校生以降の遠足は、蒲郡や彦根へ行ったのを思い出すことが出来る。
割合近い過去(といっても半世紀前だ)ということもあるが、この頃からやっとそうした行事に写真を写すという習慣が普及したからだ。
アルバムを繰ると、使用前の紅顔の美少年が、笑顔で私に問いかける。
「さて、半世紀経ったが、お前はこの私を何に作り上げたのか?」と。
授業から解放された子供たちの表情は明るく楽しげだ。
自分の子供の頃の遠足を振り返ってみる。
戦後の国民学校、小学校時代のそれは、行く先なども含めてほとんど記憶にない。
ただ、文字通り「遠足」だったことは覚えている。
つまり、今様に電車やバスで行くのではなく、歩いて出かけたのである。
その距離は高学年になるほど遠くへ伸びたはずだが、小、中学生の頃のそれはどこへ出かけたのかさっぱり思い出せない。
かといって楽しくなかった訳では決してない。
前夜にリュックサック(今のようにスマートなものではない)にいろいろ詰め込みながら、「あ~した天気になぁれ」と願ったものだ。
てるてる坊主を吊したこともあった。
そして、ワクワクしながら寝たものだ。
行く先やそこで観たものは覚えていないが、弁当だけは覚えている。
昔から食い意地が張っていたのだろうか。
主食はおにぎりである。
母は三角のおにぎりは握らなかったから、俵型かやや平たい円形のものだった。
中味は梅干ししかなかったが、ほかに、紅生姜や紫蘇を細かく刻み込んだものをご飯に混ぜて握ったものがおいしかった。
海苔で巻かれてはいなかった。海苔が登場するのはもっと後になってからである。
副食で一番楽しみなのはゆで卵であった。
当時、卵は貴重品で、遠足か運動会、或いは病気の時ぐらいしか口にすることが出来なかった。
それがまるまるひとつ食べることが出来るのだ。うれしかったなぁ。
1950(昭25)年ぐらいでも、卵かけご飯は贅沢で、大きなどんぶりに作って、父と私が半分ずつ食べた。
母は、私はいいからと手を付けようとしなかった。
その他の副食は覚えがない。あ、そうだ沢庵が付いていた。自家製の沢庵は今から考えると旨かったに違いないが、子供の舌はそれを賞味する術を欠いていた。
デザートは柿か梨だった。それらが身近にあったからだ。リンゴの時もあったが、今様にでかくて甘いそれではなく、小さめで酸味のきいた紅玉といわれるものだった(その紅玉も、その後品種改良されて、今は当時のものとは違うようだ)。
それらのラッピングは竹皮であった。それをやはり竹皮を裂いた紐で結び、さらには新聞紙で包む、それが一般的であった。
書いているうちに行った先なども思い出せるかと思ったが、やはり思い出せない。
ひとつだけ思い出したのが、大垣郊外に住んでいた小学生の頃、近くの金生山(山ごと石灰岩で化石も豊富)へ行ったことだ。もちろん徒歩である。
途中で、美濃赤坂線の列車に向かって石を投げるいたずらをし、それが発覚して問題となった。
首謀者と目され、親まで呼び出されて叱られた。
「石は列車には届いていない」と抗弁したが、もとより聞き入れられることはなく、強情な子だと判断された。
届かなかったのは事実で、あの距離では列車を狙ったのかどうかすら今となっては定かではない。
話が列車だけに脱線したようだ。
遠足に列車やバスを利用するようになったのは中学以降だろうか。それもあまり鮮明に覚えていない。
高校生以降の遠足は、蒲郡や彦根へ行ったのを思い出すことが出来る。
割合近い過去(といっても半世紀前だ)ということもあるが、この頃からやっとそうした行事に写真を写すという習慣が普及したからだ。
アルバムを繰ると、使用前の紅顔の美少年が、笑顔で私に問いかける。
「さて、半世紀経ったが、お前はこの私を何に作り上げたのか?」と。