前回の桑の実に次いでの自然や果実、そして食材の話です。
都会に住む人たちや子供たちは、農産物の生育する過程を見る機会が少ないでしょうね。
かつて、お米を木の実だと思っている子供の話を読んだことがあります。もっともこんな例は可愛いもので、大学生にニワトリの絵を描かせたら、そのうち何人かが足を四本描いた話も聞きました。解説者は、「牛や豚など食肉の対象となる動物からの連想でしょうね」と優しいことをいっていましたが、単なる無知というほうが当たっているように思います。
これはレモンの花です
そしてこれが赤ちゃん
それはともかく、食物と私ちたの関係が自然の循環過程であるというこの当然のことが見えにくくなっているというのは事実でしょうね。
宮中で行われる新嘗祭(11月23日)や、それと呼応するように行われる農村の秋祭りは、米の恵みに感謝しさらなる豊作を祈願するものでしたし、漁村の豊漁祭りもその字のごとく海の幸への敬虔な祈りでした。
しかし、それらは観光化したり単なる行事と化したりして、その本来のアウラとは切り離されつつあるようです。そしてそれは、おそらく上に述べた人の食生活が自然との循環過程であることが見えにくくなっていることと関連しているのでしょう。
これはブドウの赤ちゃんです
一口で言えば、私たちの食物が急速に既製品化されているからだろうと思います。
スーパーなどでレジに並んでふと前の人のかごを見ると、持ち帰って暖めるか、そのまま口にできるもののみがどっさり入っていることがあります。たぶん忙しかったり、親の代からそうした食生活になれているからでしょうね。なかには電子レンジ主体で、鍋釜や包丁のない家もあると聞いています。
また、街中のファーストフードのチェーンやコンビニに並ぶジャンクフードに自然の痕跡を見出すことは困難ですね。
それでは、自然の食材はどうかというと、これもまた既製品化というか工場生産化されています。肉類は昔からそうですが、近年では魚類も養殖が盛んで天然ものはわざわざそれを表示され、しかもその価格はものによっては倍以上します。
野菜もそうですね。季節感が全くなく、基本的なものは年中店頭に出ています。そして、原油価格が上がったからといって野菜の価格まで変動します。運搬の経費ではないですよ。ハウス栽培の温度を保つために重油を炊くからです。
これはリンゴの赤ちゃん
もう少し近づいてみましょう
こうしたことの積み重ねが、人間の食生活が自然との循環過程でもあることを不可視にしているのかも知れません。
さいわい、私のような年配者にとっては過去の記憶がありますし、また、農地や自然が残っているところにに住んでいれば、作物の成長過程などを観察することも出来るわけです。
いたずらにこうした現象を嘆いているのではありません。世の中はすっかりこうしたシステムが主流になっているのですし、今さら、「自然に帰れ!」と叫んでみても、それは無駄なばかりか食生活のための高価な支出を強制することにもなるからです。
私の若い頃は、加工されたものは高く自然のままは安いが当たり前でした。しかし昨今は、天然の素材で、しかも無農薬で着色剤、保存剤なしの食材のみを用いようとするととんでもない出費が要求されるのです。
それがいやなら完全自給自足を貫くかですが、これとて、土地の確保、時間の確保とリタイアーした金持ちか一部タレントさんのパフォーマンスとしてしか成立しないのです。
栗の花です。大木にたわわに咲いています
まるで、瀑布を思わせるようですね
そんなわけで、今回は都会に住む人たちに、私の回りで育っている果実の赤ちゃんがどんな具合かを撮影した写真をお届けします。
都会に住む人たちや子供たちは、農産物の生育する過程を見る機会が少ないでしょうね。
かつて、お米を木の実だと思っている子供の話を読んだことがあります。もっともこんな例は可愛いもので、大学生にニワトリの絵を描かせたら、そのうち何人かが足を四本描いた話も聞きました。解説者は、「牛や豚など食肉の対象となる動物からの連想でしょうね」と優しいことをいっていましたが、単なる無知というほうが当たっているように思います。
これはレモンの花です
そしてこれが赤ちゃん
それはともかく、食物と私ちたの関係が自然の循環過程であるというこの当然のことが見えにくくなっているというのは事実でしょうね。
宮中で行われる新嘗祭(11月23日)や、それと呼応するように行われる農村の秋祭りは、米の恵みに感謝しさらなる豊作を祈願するものでしたし、漁村の豊漁祭りもその字のごとく海の幸への敬虔な祈りでした。
しかし、それらは観光化したり単なる行事と化したりして、その本来のアウラとは切り離されつつあるようです。そしてそれは、おそらく上に述べた人の食生活が自然との循環過程であることが見えにくくなっていることと関連しているのでしょう。
これはブドウの赤ちゃんです
一口で言えば、私たちの食物が急速に既製品化されているからだろうと思います。
スーパーなどでレジに並んでふと前の人のかごを見ると、持ち帰って暖めるか、そのまま口にできるもののみがどっさり入っていることがあります。たぶん忙しかったり、親の代からそうした食生活になれているからでしょうね。なかには電子レンジ主体で、鍋釜や包丁のない家もあると聞いています。
また、街中のファーストフードのチェーンやコンビニに並ぶジャンクフードに自然の痕跡を見出すことは困難ですね。
それでは、自然の食材はどうかというと、これもまた既製品化というか工場生産化されています。肉類は昔からそうですが、近年では魚類も養殖が盛んで天然ものはわざわざそれを表示され、しかもその価格はものによっては倍以上します。
野菜もそうですね。季節感が全くなく、基本的なものは年中店頭に出ています。そして、原油価格が上がったからといって野菜の価格まで変動します。運搬の経費ではないですよ。ハウス栽培の温度を保つために重油を炊くからです。
これはリンゴの赤ちゃん
もう少し近づいてみましょう
こうしたことの積み重ねが、人間の食生活が自然との循環過程でもあることを不可視にしているのかも知れません。
さいわい、私のような年配者にとっては過去の記憶がありますし、また、農地や自然が残っているところにに住んでいれば、作物の成長過程などを観察することも出来るわけです。
いたずらにこうした現象を嘆いているのではありません。世の中はすっかりこうしたシステムが主流になっているのですし、今さら、「自然に帰れ!」と叫んでみても、それは無駄なばかりか食生活のための高価な支出を強制することにもなるからです。
私の若い頃は、加工されたものは高く自然のままは安いが当たり前でした。しかし昨今は、天然の素材で、しかも無農薬で着色剤、保存剤なしの食材のみを用いようとするととんでもない出費が要求されるのです。
それがいやなら完全自給自足を貫くかですが、これとて、土地の確保、時間の確保とリタイアーした金持ちか一部タレントさんのパフォーマンスとしてしか成立しないのです。
栗の花です。大木にたわわに咲いています
まるで、瀑布を思わせるようですね
そんなわけで、今回は都会に住む人たちに、私の回りで育っている果実の赤ちゃんがどんな具合かを撮影した写真をお届けします。