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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「日本の自画像」と私のお宝(?)写真

2009-12-11 01:31:41 | 想い出を掘り起こす
 知人の I さんから、愛知県美術館で開催中の「日本の自画像 写真が描く戦後 1945-1964」という企画展のチケットを頂きました。
 戦後を代表するそうそうたる写真家たちがとらえた時代の断片とその集積の中で歴史の推移が浮かび上がるという仕掛けの企画です。
 この年代は、私が国民学校に入学し、青年期を過ごした時期に相当します。したがって、これを見逃してはと、I さんに感謝しつつ出かけました。

 とても懐かしく感じました。もちろん、これらの写真の情景は私が直接目撃したものでもありませんし、地理的に離れたところのものもたくさんありました。しかし、例えそうであっても、私は間違いなくそこで生きていましたし、その時代の空気を吸っていたのでした。
 それは例えば、焼け跡に佇むひとの溜息が私の耳朶をかすめるようなものでしたし、遠い九州で舞い上がった炭塵が私の鼻孔に届くようなものでした。

 この時期は私の成長期であったと同時に、日本が敗戦のどん底から這い上がってくる時代でもありました。そして、そこにはいくつかの節目があり、重大な選択の時期がありました。私にも、日本にもです。
 その折々の判断や選択が今日にまで至っていることは間違いないところです。私にとっても、日本にとっても。

          
            土門 拳 紙芝居  1953
             都会の子は坊ちゃん刈り


 観ていて、改めて感じたことが結構あるのですが、その内の2、3点のみ・・・。
 普段着としての女性の和服姿が、私が思ってたよりも長く、60年代でも結構多かったことに改めて気付かされました。
 もちろん、今のおしゃれ着としての和服ではなくて普段着としてのそれのことです。

 もうひとつ、私と同年代の少年たちのことです。
 食い入るように紙芝居を見つめる子供たちの中に確かに私はいましたし、大人たちの挙動を見つめる群衆の中にも私はいました。
 しかし、なぜか違和感を禁じ得ないものがあったのです。
 そのうちにその正体が分かりました。敗戦後それほど経っていないのに、都会の子たちはほとんど坊ちゃん刈りなのです。それに対して、地方の子供や、貧しい子供たちはみんな丸刈りなのでした。ちなみに私の丸刈りは大学入学まで続きました。

 こうしてみると、戦後の時代は、当然のこととしてコンクリートの電信柱のように均質に伸びてきたのではないことが分かります。その成長の中に、様々な差異を含み、それらの差異が相互に絡み合ってきたことが見て取れるのです。
 今の格差に繋がるような貧富の差、都市と田舎、本土と離島、今では死語となっていますが厳然としてあった表日本と裏日本のちがい、それらをこの国はない混ぜにしながら今日に至っているのです。

      

 さて、突然ですが、上のものは1945(昭和20)年、敗戦前の4月、国民学校入学に際して撮った私の写真です。
 となりは今年8月、95歳で他界した私の母で、当時30歳でした。
 これは戦地の父に送るために撮ったものですが、ちなみにこの写真を撮って以来、1950(昭和25)年にいたるまでの5年間、私の写真は一枚もありません。戦後のどさくさ、しかも疎開先の片田舎にあって、写真を撮ったり撮られたりする習慣がまったく途絶えていたのです。

 自分でいうのもなんですが、それにしてもりりしい坊やですね。この坊やのなれの果てが今の私であるとはわれながら信じ難いものがあります。
 時間というのは凄いことをしでかすものですね。

私の姿勢について
 これは正統なキヲツケの姿勢です。かつては就学前の児童にまでこの姿勢が徹底してたたき込まれました。
 前にこのブログで触れた、あの「焼き場の少年」もまた、きわめて正しいキヲツケの姿勢をしていたのでした。


コメント (3)
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