同じ作者の「朗読者」という作品は、2008年、「愛を読むひと」という邦題で映画化された。
ドイツの作家にして大学で法律の教鞭を執るというベルンハルト・シュリンクの最新作、「帰郷者」を読んだ。
実はこの作家の邦訳されたものはすべて読んでいる。すべてといっても、今回のものを含めて7冊だが、別に、とくに魅せられたというわけでもない。
私は硬軟取り混ぜた「時間割」を組んで本を読むのだが、たまたま図書館で見かけたこの作家のものを読んだところ、けっこう面白かったので、その棚にあるこの作家のものを時間割に組み込んで次々に読んだという次第である。
ちなみにこの作家のもには、行動派のミステリー仕立てのものが多い。

部屋の窓辺・1 柾の赤い実
この実を食べにヒヨドリやときにはツグミがやってくる
今回の「帰郷者」は、文字通り帰郷する者(あるいはしない者)の話で、ホメーロスの英雄譚「オデュッセイア」でのオデュッセウスの帰郷と、その息子テーレマコスによる父を探索するための旅とが通奏低音のように響き合っている。
ようするに、第二次大戦後の主人公の父の帰郷の謎とその探索をする主人公の話なのだが、これは上に見たオデュッセウスとテーレマコスの旅の再生であると同時に、このテーレマコスに擬された主人公自身の帰郷をめぐる話でもある。
したがってこの小説は、オデュッセウス、主人公の父、主人公という三重の帰郷をめぐる物語といっていい。
いかにもヨーロッパ的な道具立ての小説ではある。
主人公は、帰郷すると同時に姿をくらました父の足跡を追い、ドイツからアメリカへと行く。
アメリカ、この包容力のある大陸には何かのきっかけに様々な人たちが渡る。亡命者として、あるいは逃亡者として・・・。
なかには大戦時、何らかの形でナチズムに関わり合った人たちも居る。主人公の父もその容疑の範囲内である。

部屋の窓辺・2 ムクゲの実
ここまで読んで、どうもこの話はどこかで聞いたことがあると思った。果たせるかな、末尾の解説に依れば、この小説のモデルはポール・ド・マン(1919~1983)だという。マンはベルギーの出身であるが、1946年(大戦終結の翌年)アメリカへ移住している。そしてハーバードで学位をとって以後、脱構築批評を確立したイェール学派の代表的存在として、つまり、アメリカにおけるデリダ派の巨匠として君臨していた。
それだけなら問題ないが、その死後、ナチス・ドイツ統治期のベルギーで彼が書いたものと思われる反ユダヤ的文章が見つかりスキャンダルとなった。私の記憶では、マンの父がナチスにシンパシーを持っていて、その影響下で書かれたものということだ。
そうした批判に対し、ヨーロッパではデリダなどがその擁護の論陣を張った。日本では、アメリカ滞在中に親交があったという柄谷行人が弁護の文章を書いている。
古代ギリシャの叙事詩からナチズムの問題にまで対象が広がるのだから、ヨーロッパの小説は油断も隙もない。
小説の後半の舞台設定はやや荒唐無稽的なところもあるが、作者にとってはこうした運命を辿った人物(主人公の父)の特異性を描くためには必要なシチュエーションだったのだろう。

部屋の窓辺・3 ムクゲの実 この中に種子が
日本の戦後は、一部のインテリを除いてはその思想や行動を検証されないままに終わったといっていいだろう。
その戦争責任の追求も、戦勝国の側の一方的な断罪以外、この国の内部から立ち上がることは少なかった。
映画「ゆきゆきて、神軍」での、奥崎謙三の幾分エキセントリックな追求の旅が私たちにもたらしたあの衝撃は、そうした背景があったがゆえだと思われる。
ついでながら、「ボウリング・フォー・コロンバイン」以来、ドキュメンタリーの世界を席巻しているアメリカのマイケル・ムーア監督は、「ゆきゆきて、神軍」に関し、「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と語っているという。
またまた話が逸れてしまった。
私はいいたかったのは、このシュリンクの小説は、エンターティメントのツボを外してはいないが、同時にヨーロッパの古代叙事詩、そして現代史をカバーする時間(と空間)の幅を持っているということであった。
そして今ひとつは、私たちはこうして命がけで帰郷しなければならないほど、その故郷のなれ合いから遠くに離れてはいないということである。
故郷の同一性のなかにまどろんでいる者には、帰郷という行為すら選択の外なのである。
ドイツの作家にして大学で法律の教鞭を執るというベルンハルト・シュリンクの最新作、「帰郷者」を読んだ。
実はこの作家の邦訳されたものはすべて読んでいる。すべてといっても、今回のものを含めて7冊だが、別に、とくに魅せられたというわけでもない。
私は硬軟取り混ぜた「時間割」を組んで本を読むのだが、たまたま図書館で見かけたこの作家のものを読んだところ、けっこう面白かったので、その棚にあるこの作家のものを時間割に組み込んで次々に読んだという次第である。
ちなみにこの作家のもには、行動派のミステリー仕立てのものが多い。

部屋の窓辺・1 柾の赤い実
この実を食べにヒヨドリやときにはツグミがやってくる
今回の「帰郷者」は、文字通り帰郷する者(あるいはしない者)の話で、ホメーロスの英雄譚「オデュッセイア」でのオデュッセウスの帰郷と、その息子テーレマコスによる父を探索するための旅とが通奏低音のように響き合っている。
ようするに、第二次大戦後の主人公の父の帰郷の謎とその探索をする主人公の話なのだが、これは上に見たオデュッセウスとテーレマコスの旅の再生であると同時に、このテーレマコスに擬された主人公自身の帰郷をめぐる話でもある。
したがってこの小説は、オデュッセウス、主人公の父、主人公という三重の帰郷をめぐる物語といっていい。
いかにもヨーロッパ的な道具立ての小説ではある。
主人公は、帰郷すると同時に姿をくらました父の足跡を追い、ドイツからアメリカへと行く。
アメリカ、この包容力のある大陸には何かのきっかけに様々な人たちが渡る。亡命者として、あるいは逃亡者として・・・。
なかには大戦時、何らかの形でナチズムに関わり合った人たちも居る。主人公の父もその容疑の範囲内である。

部屋の窓辺・2 ムクゲの実
ここまで読んで、どうもこの話はどこかで聞いたことがあると思った。果たせるかな、末尾の解説に依れば、この小説のモデルはポール・ド・マン(1919~1983)だという。マンはベルギーの出身であるが、1946年(大戦終結の翌年)アメリカへ移住している。そしてハーバードで学位をとって以後、脱構築批評を確立したイェール学派の代表的存在として、つまり、アメリカにおけるデリダ派の巨匠として君臨していた。
それだけなら問題ないが、その死後、ナチス・ドイツ統治期のベルギーで彼が書いたものと思われる反ユダヤ的文章が見つかりスキャンダルとなった。私の記憶では、マンの父がナチスにシンパシーを持っていて、その影響下で書かれたものということだ。
そうした批判に対し、ヨーロッパではデリダなどがその擁護の論陣を張った。日本では、アメリカ滞在中に親交があったという柄谷行人が弁護の文章を書いている。
古代ギリシャの叙事詩からナチズムの問題にまで対象が広がるのだから、ヨーロッパの小説は油断も隙もない。
小説の後半の舞台設定はやや荒唐無稽的なところもあるが、作者にとってはこうした運命を辿った人物(主人公の父)の特異性を描くためには必要なシチュエーションだったのだろう。

部屋の窓辺・3 ムクゲの実 この中に種子が
日本の戦後は、一部のインテリを除いてはその思想や行動を検証されないままに終わったといっていいだろう。
その戦争責任の追求も、戦勝国の側の一方的な断罪以外、この国の内部から立ち上がることは少なかった。
映画「ゆきゆきて、神軍」での、奥崎謙三の幾分エキセントリックな追求の旅が私たちにもたらしたあの衝撃は、そうした背景があったがゆえだと思われる。
ついでながら、「ボウリング・フォー・コロンバイン」以来、ドキュメンタリーの世界を席巻しているアメリカのマイケル・ムーア監督は、「ゆきゆきて、神軍」に関し、「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と語っているという。
またまた話が逸れてしまった。
私はいいたかったのは、このシュリンクの小説は、エンターティメントのツボを外してはいないが、同時にヨーロッパの古代叙事詩、そして現代史をカバーする時間(と空間)の幅を持っているということであった。
そして今ひとつは、私たちはこうして命がけで帰郷しなければならないほど、その故郷のなれ合いから遠くに離れてはいないということである。
故郷の同一性のなかにまどろんでいる者には、帰郷という行為すら選択の外なのである。